朝倉山城―地域おこしと城山巡り(15)

編集_朝倉山城主郭部・展望所DSCF2387山頂部の展望台とマリンベル
この城跡については、本ブログの2014年4月17日、2016年5月16日の記事でも紹介していますので、併せてお読みいただければ、と思います。
プロフィール
朝倉山城は福井市の西部、石新保町と深坂町との境界をなす標高173.3mの朝倉山山頂に位置しています。中世には棗荘(旧川西町※一帯を範囲とする)を治めていた戦国大名朝倉氏の領域にあたるところで、朝倉氏の一族であった朝倉玄蕃助景連が居城していたと言われています。

永禄四年(1561)四月、朝倉義景は棗大窪浜(現福井市大窪町)で犬追物を催しました。この時奉行を務めたのが景連です。一万人を超す見物人でごった返す中を、家来衆が狩衣姿でさっそうと練り歩いたと言います。
朝倉山城はその周辺警固の要として、重要な役割を果たしたことでしょう。

また朝倉氏滅亡後は、信長の再侵攻に備えて一向一揆が立て籠もった山城とも言われています。
天正三年(1575)織田信長は、一向一揆によって制圧されている越前を再度攻撃するため、大軍を差し向けました。この時、糸崎や三里浜、三国の浜に軍勢が押し寄せるという噂が立って、一揆勢は三国の安島、棗の鷹巣山、朝倉山にそれぞれ城を築いて防戦体制を敷いたと言います。

編集_朝倉山城展望台から海岸を臨む2DSCF2412朝倉山城の展望台から海岸を望む
朝倉山城跡は北側山麓にある日吉神社の境内奥(現在は林道が造られていますが)の山道を約30分登ると山頂部に辿りつくことができます。
山頂には中央部が一段高くなっていて、中心曲輪が置かれたものと思われます。その周りに腰曲輪があって主郭部を防禦しています。ここに近年展望台が立てられ、さらに一層、周囲の見晴らしがよくなりました。
虎口(城の正面入口)は南側と思われ、土塁と堀切で囲われたいくつかの曲輪を通って中心部に至ります。このつくりは戦国末期頃のものと思われます。

編集_朝倉山城説明板DSCF2403 - コピー山頂にある説明板(赤線は土塁の痕跡を示すために付記しました)
一押しのスポット
山頂部にはテレビ局のアンテナがいくつか立てられていて、かなり雰囲気が損なわれた感はありますが、最近、地元の人たちによって遺跡の清掃など行われていて、とても見学しやすくなりました。説明板も設置され、の日本海の眺めは大変素晴しいものがあります。

アクセス
京福バス鮎川線で棗農協前下車。すぐ近くに日吉神社があり、この脇に登山林道があります。徒歩約30分の道程です。
自家用車なら福井市街から20分、付近には駐車場がありません。集落内にある棗公民館にお願いして駐車するようにしましょう。

補足
※旧川西町とはかつての坂井郡川西町のことで、九頭竜川以西の各集落のまとまりをさし、昭和42年に福井市に合併しました。
スポンサーサイト

天目山城―地域おこしと城山巡り(14)

編集_大森町天目山城跡の踏査2016年10月27日 003福井市大森天日神社と天目山城跡
本城跡も天神山城跡と同じく、つい最近現地踏査して、その実態をきちんと把握できた山城のひとつです。そして、その形状が越前では大変珍しい二重の円形の空堀が廻っている山城であることが分かり、山城の種類の多さ、多様性に驚いている次第です。
本ブログでは2016年10月28日付でアップしていますので、ご参照ください。

プロフィール
天目山城は福井市(旧清水町)大森にある山城で、むかしの記録である「越前国城跡考」にも時代不知の城として認知されています。
従って、誰の築いた城であるかは分かりませんので、いつの時代の城かもはっきりしたことは特定できません。しかし、そんな不安を吹き飛ばすほど、この山城は興味ある形態をもっています。

編集_大森町天目山城跡の踏査2016年10月27日 011二重空堀の様子(東側斜面)
まわりに二重の空堀が巡っているのです。時代をはるかに遡って古墳時代には村里近い山の尾根上に円形や方形の古墳を築いて死者を弔うことが行われていました。権力のあった支配者には前方後円墳が築かれることもありました。
そんな時代のものなら、このようなかたちは特に珍しいものではありませんが、戦国時代のものだとすると、越前ではほとんど見つかっていない形態、ということになり、とても珍しいものと言えます。

唯一、若狭の美浜町佐田というところに、これと全く同じ形態の山城が確認されています。狩倉山付城(砦跡)と呼ばれています(2015年10月9日付「美浜国吉城周辺を歩く(1)」でアップ)。美浜町のほうは二重に空堀が巡り、径は約100mですが、天目山のほうはそれよりは小ぶりで、径約30~40mの規模です。古墳の可能性もかなりありますが、古墳と判断するには墳頂部の盛り上がりがなさすぎますし、回りの堀も深すぎます。ここはやはり、砦などに使われた小規模の城跡と考えたほうが良いと思われます。

同じような例が今年に入って、3月までの踏査でさらに2ヶ所見つかりました。
あわら市後山地区の上野山城跡、そして越前町(旧朝日町)荒神ヶ峰城跡です。いずれも円形、または楕円形をしていて回りを一重、二重に空堀が巡ります。
上野山城は木曽義仲伝説上の城跡ですし、荒神ヶ峰城は別名豊蔵城とも言い、太平記にも登場する山城です。どちらも内容不明の山城でしたが、3月の踏査によってその性格をほぼ明らかにできました。この2例については、別項でも詳しく触れます。

一押しのスポット
天目山城は、南北朝時代に新田義貞が築いた、という伝承がありますが、確かな根拠はありません。
また、室町時代や戦国時代に城の防御方法として二重の空堀を築いた、という記録もありませんので判断のしようがないのですが、美浜町の狩倉山砦跡は朝倉氏が国吉城の粟屋氏を攻撃するために築いた陣城であるとか、最近は賤ケ岳の戦いの折り、若狭を支配していた丹羽氏が秀吉の命を受けて、柴田氏を包囲するために築いたのではないかという見方も出ています。

この見方が妥当であるとするなら、天目山城跡も同じような時期に築かれたと推定することは可能です。他の上野山城、荒神ヶ峰城も同様です。
しかし、まだ不明な点も多いため、今後の進展に期待したいと思います。

アクセス
前回の天神山砦のアクセスと同様、京福バスで「茱崎線」に乗り、大森で下車。すぐそこが天日神社です。この神社の階段を上った境内の奥に城跡があります。徒歩約10分。
現在、林道工事が行われていますので、重機などの作業中は特に注意が必要です。
自家用車でアクセスする場合は、大森地区の賀茂神社隣りにある「睦月神事会館」の駐車場に停めさせてもらうようにしましょう。

天神山砦―地域おこしと城館巡り(13)

福井市天神山砦の踏査2017年2月28日 (1)天神山砦跡(北西から)
この山城は、つい最近登城したばかりの城跡で、ある意味で新発見に近い城跡と言えるものです。本ブログでは2017年3月10日でアップしていますので、ご参照ください。

旧清水町(現福井市)大森に所在する天神山砦跡は「越前国城跡考」や「名蹟考」に記載されておらず、従って詳細不明の山城と言えるものです。実際に本当に遺構があるかどうかも、現時点では分かりませんでした。
唯、『福井県の中・近世城館跡』で取り上げられているものだということで、位置図を頼りに現地踏査を実施しました。

旧清水町や朝日町には山間地荘園が多くみられ、古くから開発された土地柄でした。京都賀茂社や仁和寺、あるいは公家領の土地が多く点在し、戦国時代には一向宗の拠点もいくつかあったようで、それに関連する城跡が散見されます。坂井郡や足羽郡のように朝倉氏の一円支配で統制されていた地域とは様相が大分異なっているのではないか、という予測をもたせてくれます。

福井市天神山砦の踏査2017年2月28日 (8)天神山砦跡主郭部東の堀、土塁
プロフィール
県道6号「福井四ヶ浦線」で市街地から日野川の久喜津橋を渡り、天下(てが)をすぎて大森集落手前の標高88m天神山に砦跡は所在します。
志津ヶ丘団地北端にあたる山道から東に迂回して、南側にひらく谷筋から山頂部の城砦跡を目指しました。やや傾斜の緩い谷道を尾根に向かって20分も歩いたでしょうか、すぐに尾根線の鉄塔近くに到達できました。

ここからは左手前方、大森集落や滝波集落が遠くに見渡せて、やはり見張台としての位置をしっかり確保した場所であったことが了解できます。
鉄塔から150mほど北に小さなお堂の建物がありましたが、あばら家状態で大きく傾いて今にも倒壊しそうな気配でした。

この御堂のある山頂部が砦跡と思われ、約20m四方の方形台状の曲輪に腰曲輪が取り巻いているのが確認できました。
腰曲輪は東側では土塁を伴っていて、腰曲輪も長さ18mにわたって空堀状に延びています。北側は傾斜のきつい斜面となっていて、幅約1.5mほどの腰曲輪が主郭斜面に沿って取り巻いています。西側は段違いに一段下がって、腰曲輪が南側に直線的に延びて、鉄塔側の尾根道につながっています。

山頂部は御堂が建っている外はなにも構造物はなく、雑木で蔽われている状態です。ここからの眺望は望めず、位置的な確認はできませんでした。

天神山砦の縄張りは山頂部の御堂のまわりだけではなく、南西側鉄塔周辺の尾根上にも段曲輪が2~3ヶ所確認できますし、御堂との中間地点の尾根でも東側の谷筋に向かって緩やかな緩斜面が続き、やはり3段の平坦地を確認しました。いずれもこの天神山砦に付随した遺構群と判断でき、これらを含めて山頂部一帯約200mの範囲を城跡と考えたいと思います。

一押しのスポット
この城跡は名称こそ天神山砦、となっていますが単郭構造の陣城ともいえる自己完結型の山城だと言えるでしょう。
主郭部の腰曲輪は四周をめぐり、東側には土塁と堀切が明瞭に遺存しています。大手口は南側の尾根線からの登城道と思われ、南端部(鉄塔がある曲輪)に虎口があります。
ここから南に段差を伴って小さな段曲輪が取り付き、山麓部へと通じています。
鉄塔からの眺望は大森の集落が真下に見えて、すぐ西側には道をはさんで向かい側に天目山城も見えます。
大森周辺城館位置図大森地区周辺城館位置図(国土地理院地図を引用、一部改変)
アクセス
京福バスで旧清水町、越前町方面行きの茱崎線に乗り、清水診療所のバス停で下車します。そこから南の大森郵便局のある三叉路まで歩き、東の方向に少し進みますと天神山に向かう谷道があります。この谷道を道なりに山頂に向かって進むと城跡に着くことができます。山城まで10分ほどの道程です。
自家用車でアクセスする場合は、天神山の麓の農道に通行の邪魔にならないように片側に寄せて駐車し、そこから徒歩で山頂部まで進みます。

冬野城―地域おこしと城山巡り(12)

少し、間隔が開いてしまいましたが、再び県内の山城を紹介するコーナーを再開したいと思います。
ご紹介する山城は福井市を東西に分断して流れる日野川の東側、地理的には鯖江市にほど近い冬野城です。
本ブログ2013.9.29~10.1蕗野(寺)城を踏破しました(1)~(3)でも縷々、紹介していますのでご参照ください。

青葉台団地から城山を臨む(2)2013_0928福井市冬野町青葉台団地南から城山を望む
プロフィール
福井市冬野町にある冬野城は別名蕗野寺城とも言い、また南居(なご)城とも言います。「越前国城跡考」には時代不知の城跡として記載され、詳細不明の城となっています。
『角川地名大辞典』には「蕗野寺」、「蕗野保」として記載があり、福井市冬野町の城山の麓が「蕗野保」に比定されています。ここから蕗野寺城の名が付いたものと思われます。


南北朝期の「得江頼員軍忠状」という文書には暦王2年(1339)9月15日の条で、北朝方が麻生津を攻撃し、南朝方が蕗野寺城や二岡城から反撃したので、北朝方はその蕗野寺城の麓を焼き払ったという記事が載せられています。

主郭北東から2013_0928冬野城山頂部の展望所
冬野城は現在、冬野町の青葉台団地の北側、合谷町と境を接する城山(標高202.1m)の山頂部一帯に展開する山城です。
東西方向の尾根線上に約600mにわたって遺構が見られ、曲輪8ヵ所、堀切は10ヵ所ほどが確認されます。三角点のある山頂部がこの城の主郭部と考えられ、中央にやや高くなった壇状の地形があり、周囲は帯曲輪が取り巻いています。その前後は堀切があって遮断されています。

城の正面、大手口は東側の杉谷町側から登ってくる尾根線にあると思われ、「中屋敷跡」の古地名が残る細長い曲輪の手前には互いに向き合う3条の畝状竪堀があり、厳重な防御態勢をとっています。
その他の曲輪には土塁囲みや食違い虎口などの遺構は見当らず、尾根線にそって連なり連郭式の形態を保っているところから、古い形式の山城に入りものかと思われます。
戦国時代の末になって畝状竪堀が用いられて、再びこの城が利用されたものと判断され、時期的な変遷過程が辿れるとても貴重な山城だと思われます。

冬野城位置図冬野城位置図(赤点線は登城ルート)
一押しのスポット
山城は地元の人たちによって遊歩道として整備され、とても歩きやすい山路になっています。特に山頂部には展望所が設置されて、南側は遠くに日野山を仰ぐ丹南平野を見渡せ、北側は足羽平野のシンボル、足羽三山(足羽山、八幡山、兎越山)が見通せる、絶好の展望ポイントとなっています。

アクセス
本城跡へのアクセスは福鉄電車からも、バスからも可能で、電車からだと浅水駅を降りてまっすぐ西に進み、青葉台団地の北端にある登城口へと向かいます。案内板があるので分かりやすいです。バスは浅水駅から麻生津循環線青葉台ルートに乗り、杉の木台で下車して青葉台団地へ向かいます。
ハーモニーホール駅で降りるコースでは、まっすぐ西に向かって進み、杉谷町天満神社の北側の脇にある林道奥の登城口から山頂を目指すことができます。こちらは地元の「清明まちづくり委員会」によって毎年、城山への登山道が清掃されていて、とても歩きやすい城道になっています。
又、城山西麓の南居町からもアクセスできるようですが、こちらからのルートはほとんど利用されておらず、道も整備されているかどうかははっきりしません。

出雲・因幡の史跡めぐり(7)

鳥取城見学 (15)鳥取城二ノ丸東、天球丸遠望(南から)
出雲・因幡の史跡めぐりの旅、この後は鳥取城のある鳥取市街地に向かいました。砂の美術館からは約5㎞の距離です。
お昼は鳥取城に着いて、見学を済ませてから近くのレストランで…、と思って現地まで行ってみたのですが、回りは静かな住宅街で、城以外には県立博物館や鳥取西高校の校舎があるだけで何も見当りません。
鳥取城パンフ鳥取城見学用パンフ
博物館内に見学者用のレストランがあったのですが、お客さんが満杯で、なかなか順番が回ってきません。待ちきれずそのレストランを出て、他を探すことに。
パートナーのタブレットで探すと意外に早く見つかり、近くの東町3丁目の小さな食堂で食事をとることができました。


話を戻しますと、鳥取城は但馬守護、もしくは因幡守護山名氏によって築かれたと言われていますが、詳しいことはあまり分かっていません。鳥取城を有名にしたのは秀吉の兵糧攻めにも耐えて、最後は調略によって城主吉川経家が開城したという、要害堅固の城郭として知られていることによります。
鳥取城は近世以降もこの山城を中心に城郭を改修して利用し、鳥取藩池田氏32万石の城下町として明治まで存続しました。

鳥取城見学 (1)西坂下御門前の説明板
このように鳥取城は近世も山城として十分機能していた城郭なのですが、あまりこの点は知られていません。
鳥取城見学 (2)西坂下御門(西から)
近世の山城としてよく知られているのは、第一には奈良の高取城、ついで美濃の苗木城、あるいは越後の村上城、備中の松山城、石見の津和野城等々。しかし、この鳥取城もれっきとした山城をもつ城郭です。

鳥取城見学 (4)二ノ丸北西隅に築かれた登り石垣(嘉永2年の拡張による普請と言われます)
鳥取城見学 (3)西坂下御門奥から二ノ丸に通じる裏御門、三階櫓石垣を望む(西から)
鳥取城見学 (5)二ノ丸へ通じる裏御門跡(北から、左の石垣は三階櫓跡)
鳥取城見学 (6)二ノ丸三階櫓跡(南から、三階櫓は明治12年ごろまで遺存したが、その後取り壊された。鳥取城の天守として使用されていた)
鳥取城が興味を引くのは、単に鳥取城だけの整備に止まらず、近くの山頂部に築いたという、秀吉の陣城、太閤ヶ平(なる)をも同時に復元整備したということにあります。
鳥取城見学 (7)二ノ丸菱櫓跡から天球丸、楯蔵跡を望む(手前下は大手門から続く登城路の復元道路)
鳥取城見学 (8)大手門から続く二ノ丸の表御門跡(内側から、奥の高台は天球丸の曲輪)
鳥取城見学 (10)同、表御門跡(外側から)
今回は、ついでの見学だったので、とても山深くまで分け入っての登城はできません。鳥取城の本丸である「山上ノ丸」さえ、クマ注意!の看板があって、思いとどまりました。
鳥取城見学 (14)二ノ丸菱櫓跡、向かって右は天球丸の石垣
鳥取城見学 (12)天球丸全景(北西より)
太閤ヶ平は登城口から約50分、鳥取城本丸から尾根伝いにいくと1時間もかかる道程です。
お気軽にチョチョイのチョイで登ろうとしても行けるものではありません。
鳥取城見学 (13)天球丸全景(南より)
しかし、最近の鳥取城の石垣や各曲輪の復元整備には目を見張るものがあります。他の県の多くの近世城郭が、石垣の復元を中心に整備が進められている中で、鳥取城は最後に残った本格的な復元工事となっていて、さすがに見ごたえがありました。

いつか、日を改めてじっくりと見学する必要がありそうです。そんなことを考えながら、鳥取城をあとに、家路に着きました。