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あわら市神宮寺城の再踏査―その4

Photo Editor_細呂木、神宮寺城、春日神社 002神宮寺城全景(JR細呂木駅の方向から望む)
久々にあわら市の神宮寺城を踏査する機会がありました。あわら市教育委員会が神宮寺城の活用を図り、保存を含めた整備を目的に遺構を正確に図面におとす作業を進めているのですが、今回はその4回目です。

Photo Editor_細呂木、指中神社、神宮寺城 001指中神社への参道
前回は城の本体部分である山城東半分を歩きました。主として曲輪や堀切、段曲輪、畝状竪堀などがある中心部分でした。
今回はその西側半分で、集落の背後の丘陵と高台部分が中心です。ここはかつて平成5年頃に最初に踏査した段階では杉の植林のために伐採が行なわれて、辺り一面雑木や下草が密集して、藪漕ぎ状態でした。そのためほとんど遺構の詳細が把握できず、踏査を断念した場所でした。近年、この場所を再度歩き直したところ、植林した杉などが生い茂り、鬱蒼とした暗い林になっていました。周りは遺構の状態を観察するのにとてもよい状況になっていました。そして、あわら市が実施した空中写真でも明らかになりましたが、ひな壇状の階段を連想させる段曲輪がこの高台の場所と北側の谷に面した斜面、更には春日神社の裏手でも見つかり、大きな前進となりました。

Photo Editor_細呂木、指中神社、神宮寺城 003細呂木地区指中集落にある神社
今日はそのひな壇状の段曲輪を平面図で確認し、原位置をおとすために再踏査することとしました。図面におとすといってもコンター図と現地の地形を照らし合わせ、見取り図が性格に反映されているかどうかを見るのが精一杯でしたが・・・。
最初に集落西側の指中神社の境内から登り、高台の入り口と見られる虎口を確認しました。今日見た感じでは、内枡形の形態で鍵の手に左右の土塁がかみ合った状態に成形されています。よくぞ残ったものだと感心しきり・・・。この高台は戦時中、もしくは戦後にも指中集落の人たちによる畑地耕作が行なわれたことが容易に想像される場所だと思われ、山城の遺構が残っているとはあまり期待していなかったのですが。

さて、ここを皮切りに奥へとすすみ、高台の全体を初めて歩くことになりました。以前は丈の高い雑草が生い茂り、地形の起伏はとても見にくい状態でしたが、今日の段階では雑草も殆ど生えていなかったので、この高台部分がどういう状態だったかがつぶさに把握できます。

IMG_20180408_0001_NEW - コピー (2)神宮寺城の西側半分(途中で踏査を諦めた尾根線)
集落の畑地だった痕跡が残り、いくつもの方形の区画割が確認できました。中央あたりでは山側から集落へ傾斜するやや太い溝が走り、縦横に格子状の溝が切られています。この溝状のラインは畑地への出入りの農道だと思われます。周りの多くは杉や竹が生えていて下草は殆どありません。やや東寄りの傾斜する崖面に幅約3mの竪堀が確認できました。一条きりでほかには見当たらず、連続する様子ではありませんでした。
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手繰ヶ城山古墳の踏査(その2)

手繰ヶ城山古墳の踏査 (4)手繰ヶ城山古墳全景(前方部北西隅から)
①は後円部の墳頂部です。中央には盗掘坑とおぼしき凹みが見られます。さらに墳頂部の南半分が一段低くなっていて、L字に削られている可能性があります。そして、南東隅では土塁痕跡さえ見られます。
②、③は方形墳とされる高まりが2基並んで確認されるもので、②はくびれ部に近いこともあり、造り出しの可能性もあります。①と②を隔てるやや浅い溝が西側にあり、Ⅰ段目の段築の線とも重なっています。

手繰ヶ城山古墳測量図手繰ヶ城山古墳略図と主要遺構(番号をふった箇所)
それに比べて②と③の間にある溝は深く、大きく掘りきられていて、中世の山城の堀切と考えても全く遜色のないものです。もちろん後世の所為とも考えられますが、⑧の土橋状の道とつながっていることからも中世の所為の可能性は高いと思われます。この古墳が河原石大の葺石で覆われている、という事実が判明していることからも全山の表土剥ぎを行なった暁には後世に新たな溝が切られたどうかが、確実に判定できるという条件があります、今は望めないにしても・・・。

手繰ヶ城山古墳の踏査 (5)後円部から見た前方部(伐採された樹木の立ち枯れが目立つ)
④、⑤、⑥、⑦はいずれも墳丘裾部に作り出された平坦部で、段曲輪と考えられますが、古墳の造り出しの可能性も捨てきれません。それぞれ、一段上にある平坦部には河原石が確認されていて、こちらはほぼ裾部に作られた何らかの古墳の施設であるという可能性は高いのですが、④、⑤、⑥、⑦はそれぞれ後世の所為と見て良さそうです。こちらでは葺石は確認されていません。

手繰ヶ城山古墳の踏査 (6)後円部東側からみた培塚と堀切
それにしても三峰山や、この手繰ヶ城山は古墳の墳形を大きく変えずに要所のみに手を加えて山城としている、ように思われて感慨深いものがあります。俄か作りのものという先入観も手伝って、本格的山城ではないと思うのも致し方ないか・・・。一体に、この松岡地区では本格的に築造された山城はまだ確認されていません。永平寺や福井市の東部地区にはあるのに・・・。ちょうどエアポケットに入ったかのようです。ただ、松岡市街地のすぐの裏山は春日山公園になっています。この地区は横口式石棺で知られる春日山古墳がありますが、公園造成によって大方の地形が改変を受けました。ここから乃木山古墳、そして三峰を通って二本松山に至る、古墳の連続する尾根線が大いに山城の築造された可能性を持つ場所と見られるのに、先日の踏査でもはっきりした山城の遺構は見られませんでした。
手繰ヶ城山古墳の踏査 (7)培塚②と③の間の堀切(南から)
まだその目では一度しか歩いていないのですから確定的なことは何も言えませんが、今後もこの地区での山城踏査は続ける意義が大いにあると思っています。

手繰ヶ城山古墳の踏査

手繰ヶ城山古墳の踏査 (1)九頭竜川の堤防から見た手繰ヶ城山古墳の尾根線
令和2年5月1日(金)前にブログアップした手繰ヶ城山古墳について、ユニークな名前の古墳であると紹介しました(2020.2.7山城入門講座を始めるにあたって-エピソード1)が、名前の通り、城跡としての可能性はないのか、ということが気になっていましたので、ゴールデンウイークのお休みを利用して歩いてきました。

手繰ヶ城山古墳の踏査 (2)永平寺側から見た手繰ヶ城山古墳の尾根線
確かに手繰伝説にもとづいた古墳であることは動かないのですが、後世に山城として改変された形跡がないのかどうか、城歩きマンは不心得にもその意識で歩くことはしないで、この50年近くを過ごしていました。学生時代は山城に興味が全くなかったので、手繰伝説をそのまま鵜呑みにして、城跡として見ることはないに等しい状態でした。やんぬるかな・・・
今回、たまたま松岡古墳群を歩く機会を得たのも大きな動機になりましたが、この際、きちんと山城として見直してみようという気持ちで歩き直しました。

手繰ヶ城山古墳の踏査 (3)手繰ヶ城山古墳の手前にある説明板(真ん前の杉の木がとても目障り)
そして、その意識で手繰ヶ城山古墳を見直してみると、かつて誰かが山城としてこの古墳を考えた論考がほとんどないことにも気づかされました。それもまた不思議な現象です。三峰(みつみね)山古墳が前方後円墳ではなく、中世の山城であると試掘トレンチの結果判定されたことがあったのにも関わらず、です。
「手繰伝説」が中世の山城であるかもしれない、ということを遠ざけるのに大きく作用しているようにも思われます。実際に城歩きマンも今まで中世の山城としてみる目を全くもたなかったわけですから・・・。

なにはともあれ、今日は山城の可能性を考えるために手繰ヶ城山へ来ました。参考図を見ながら、山城の痕跡を探して歩いてみましょう。

松岡古墳群の踏査(その3)

松岡古墳群の踏査(編集) (5)石舟山古墳前方部(南から)
鳥越山古墳は前方部が短い、ホタテ貝型古墳に含められる前方後円墳です。全長も約65mで、平成17年に国の史跡に追加指定された松岡古墳群3基(石舟山、鳥越山、二本松山)の前方後円墳のうちでは一番規模が小さいのですが、主体部に設けられたトレンチ調査では、石棺直葬の部分とその脇でも後期縦穴系横穴式石室が発見されて、2度利用されたことが分かり、話題となりました。

松岡古墳群の踏査(編集) (6)鳥越山古墳墳頂部の倒木痕
ここも看板や説明板がひどく痛んでいて問題です。特に鳥越山古墳の墳頂部は倒木が二本もあって見苦しい状態で、景観をたいそう損なっていたのが印象に残りました。
二本松山古墳は過去に何度も主体部の発掘が行なわれて、多くの副葬品が出土したことでよく知られる古墳です。全長約90mで、これも手繰ヶ城山古墳と同じように横から見た形状がとても美しく、平面形としてはいびつな形状をした前方後円墳です。また地元の伝承では坂上刈田麻呂の墓ではないかと言われていましたが、今では石棺直葬の5世紀後葉の古墳であることがほぼ確定しています。

松岡古墳群の踏査(編集) (7)古墳の裾部に移転された石碑
墳頂部にあった坂上刈田麻呂の墓碑は、すぐ北側の平地に移転され、古墳は周囲の樹木も取り払われてすっきり、きれいになりました。看板も近年新たに設置されて読みやすくなりました。陪塚と思われる東側の裾部で、埴輪の破片を見つけました。まだトレンチ調査の時の遺物採集の取りこぼしがあったのですね・・・。こういう場合は速やかに地元の教育委員会に一報を入れることをお勧めします。山歩きの記念に、と持ち帰ることは避けましょう。大切な文化財です。一通り古墳を見回しながら来た道を戻ることにしました。

松岡古墳群の踏査(編集) (8)二本松山古墳の入り口にある説明板
約50年ぶりにもなる松岡古墳群の踏査はここで無事終了です。見学のための遊歩道はきちんと残っていて、道に迷うような箇所はありませんでした。しかし、急な階段のところや、坂道には登りやすいようにタイガーロープがほしいところです。疲れが大分緩和されますし、第一に安全性も向上します。三峰山へ登るところや石舟山に登るところは特に急登の階段が続きます。
またあちこちの看板や説明板が傷んでいるのも気になりました。修理には経費がかかることなので予算措置を執って進めることになり、すぐには取り掛かれませんが見学者から見るとせっかく来たのに、と大変がっかりする場合が多いです。なるべく早い対応が望まれます。

しかし、このような大古墳群がきちんと残っている松岡地区。かつて2007年9月には全県あげての継体天皇の即位1500年記念行事が各地で行なわれました。松岡古墳群は築造時期が4,5世紀頃と継体天皇と同じ時期ではありませんが、継体を生んだ母体としての越の首長墓群です。関係ないわけがありません。松岡町でもこうしたイベントにあやかって多くの関連行事が行なわれ、松岡古墳群のPRに努めていたことはご承知のことと思います。地元は大いに盛り上がったことだろうと推察されますが、この熱気は今はどうでしょうか・・・。大王を育んだ由緒ある「こしのくに」のアイデンテティは形成されているのでしょうか。
若狭町の脇袋古墳群も首長墓が並んでいて有名ですが、隣県の石川県では雨宮古墳群や和田山古墳群も国史跡として史跡整備がなされています。しかしこちらは北陸を代表する一大古墳群です。県民に誇れる歴史遺産として有効な利活用が期待されるところです。

松岡古墳群の踏査(その2)

松岡古墳群の踏査(編集) (2)三峰山の説明板(アクリル板が割れて剥落)
歩き始めて20分ほど過ぎると三峰(みつみね)山に着きます。ここはかつて前方後円墳とされていましたが、その後の調査で主体部らしき場所もなく、中世の土器片が出土するばかりであることから中世の山城である、と判定されたものです。現地踏査では確実に古墳だと目されていましたが、試掘トレンチで遺構の有無を確認した結果、古墳の遺構が見つからず、周辺に堀切状の断ち落しがみつかり、出土遺物から見て山城の堀切という結果になったようです。

松岡古墳群の踏査(編集) (3)石舟山古墳の説明板(古墳の図が剥げ落ちて消失)
この三峰山から方向を南に変えてさらに進みます。途中に四阿(あずま)舎があります。緑化運動の補助金で建てられたものと思われます。でも何故こんな場所に・・・。周りはうっそうと樹木が生い茂って視界は効きません。でもよく周りを見ると、ここから東の方角に永平寺の谷が透かして見え、おそらくかつては展望台としての利用目的があったのだろうと想像されました。四季の森の旧傘松閣の建物も遠くに望むことができます。管理者の皆さんには周囲の樹木を刈り込んで、以前のような、もう少し見晴らしの利く環境を、と思います。

松岡古墳群の踏査(編集) (4)石舟山古墳前方部(毎年草刈りされているので、雑木がなくて、大変きれいです))
そうこうしているうちに石舟山の古墳に到着しました。
この古墳は前方部が南に開いた古墳で、柄鏡型の全長約80m、後円部に刳り抜き式の舟形石棺を埋葬した古墳です。近年の調査で周囲に埴輪列が回っているのが確認され、遺存度は極めて良好であるとされます。既に斉藤優氏によって昭和47年に発掘調査が行なわれています。斉藤優さんは福井の草分けの考古学者です。条里制の研究や多くの古墳関係の著書があります。
前方部の一段下に陪塚らしき方形の高まりがあります。説明板や名前を記した標識が長い間にすっかり古ぼけて、ペンキがハゲて名前が読めなくなっていました。説明板も古墳の形状を示した図がやはりハゲ落ちて消えていました。設置した時期が平成7年頃ですのでもう20年以上も経っていればこうなるのは必定ですね。これは鳥越山でも同じでした。ただ、二本松山はあとで看板が修復されて、新しいものに変えられてきれいでした。<この稿続く>