
4月1日の福井新聞に越前市の市庁舎が新しくなり、その庁舎前広場の整備が完了したという記事が載りました。
庁舎の完成は去年の1月で、その後庁舎前広場の整備工事が進められていましたが、このほど完成した旨の報道がありました。この庁舎前広場に復元整備された石垣を巡っては、2017年に庁舎建設工事に先立って行なわれた記録保存のための発掘調査で発見された、慶長年間の城主本多成重治時代のものと判明し、地元の保存団体からの強い要望で現状保存が訴えられましたが、当初の工事計画は変更できない、との理由で市当局に押し切られ、移転復元による保存となったものです。
当時の福井新聞を見返しますと、2017年8月11日付けで、「越前市府中城遺構の再現検討」と題する記事が載せられています。その前月に発掘が終わり、現地説明会が行なわれ、城歩きマンも見学会に参加したことを覚えています。
越前市教育委員会の調査成果から石垣遺構以外に屋敷跡や池庭関連遺構などが検出されていて、江戸時代初期のものであろうという見解が出されていました。
この府中城跡に関しては、天正年間から慶長年間に至る、越前での多くの戦いの中心にもなっていた、府中の歴史を明らかにする重要な場所に当たっているのは必至で、江戸時代初期頃とすれば、慶長5年の関ヶ原の戦いの後に越前に入った結城秀康の家臣、本多富正が三万六千石余を拝領して府中に移ってからの時期を指します。
この時期に府中の城下町作りが進められたことは容易に推察され、前田利家が一時期拠点とした時期も含めて、その時代の歴史を直接示す貴重な歴史遺産だったことは否めません。
こうした貴重な歴史遺産を、越前市は当初の予測であった国府関連遺構ではない、と言うことが本当の理由だったように記憶していますが、保存は無理との結論に至り、議会でも保存を断念する決議を行ない、石垣のみを移築、保存すると市民に約束して現在に至っていました。<この稿、続く>
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