このところの山事情について

夜叉ヶ池夏景色夜叉ヶ池(2014年夏撮影)
さる7月12日(水)の福井新聞第3面に、「クマ出没最多ペース」と題した記事が掲載されました。城歩きマンのブログでは、4月16日の記事に「冬眠に入ります」というテーマでアップしました。(2014年10月20日でも同じような記事をアップしています)

あれから3ヶ月が経ちました。今度は今年のクマ出没件数が最多ペースで推移している、というショッキングな話題です。
山歩きを業としている私たちにはとても嫌なニュースです。それでなくても、クマとの遭遇を気にして、ビクビクしながら山歩きをしているというのに、今年はクマが多い、という話。早々と冬眠宣言をしたのもタイミングが良かったというべきか、と妙な安ど感を味わっています…。

どこかのニュースでは、山菜取りに出かけた女性がクマ鈴を着けていたにもかかわらず、クマに襲われて、怪我をしたとか…。ラジオをガンガン鳴らしながらでないと、最近はクマも鈴に慣れてしまったのか、と悲観的な憶測が飛び交っています。
いずれにしても、クマには出会いたくないのが本音。

2017年7月12日新聞記事福井新聞7月12日付け第3面
新聞の「クマ情報」はみな人里に下りてきた、山裾での話であって、山中で出会った話ではないのです。山歩きでクマに遭うのは、その人の勝手。しかし、人里に下りてきて、人に危害を加えたら、それは事件だとばかりに大騒ぎ。
山菜取りで、山中に入ってクマに襲われた、という話もないではないですが、それは当たり前のことで、事件にならないのです。

城歩きマンは、ほとんど一人で山歩きしています。ですからクマ鈴は必需品です。必ず携行するようにしています。そして、これは基本中の基本ですが、クマの活動期イコール夏場は山歩きしない、という鉄則を守っています。
今のところ、クマには遭遇していません。かすりもしていません。前にブログに書いたかもしれませんが、出逢ったことがないから、なおのこと恐怖です。
クマ以外のシカ、サル、イノシシ、ニホンカモシカには遭遇しています。襲われる不安がないので、びっくりした程度で終わっています。

しかしクマは別物です。今年の冬はどうなるのでしょうか、十数年前にクマが人里に下りてきて、川沿いに歩いていたとか、丸岡の市街地や民家に入って来て、柿の木に登っていたとか大騒ぎになった年がありました。2002年か2003年の頃かとも思うのですが、記憶が曖昧です。福井豪雨の前だったと微かに覚えています。

秋終いから冬のはじめには山歩きを開始したいと思っているのですが、冬眠前の熊の活動がいつまで続くのか、クマとの駆け引きみたいなことが想像されてゾットします…。
ここらが潮時なのか…、もう山歩きはやめたら――?と言われているようにも聞こえます。
しかしながら、城歩きマンにはまだまだ、歩ききっていない山城がワンサカ残っているのです。イヤハヤ、どうしたものか。
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多賀谷左近の墓見学記

あわら市多賀谷左近墓の踏査 (1)あわら市郷土歴史資料館(正面から)
2017年(平成29年)7月14日(金)あわら市にある多賀谷左近の墓を見学しました。その前には市内にある郷土歴史資料館で、展示もひととおり拝見しました。


現地の墓所には、ずーっと昔から、一度見ておきたいと思っていたこともあり、猛暑日の気温35度の炎熱地獄の中を、やっとのことで見学を果たしました。

あわら市多賀谷左近墓の踏査 (2)墓所遠望(南から)
ちょうど昼飯時の時間帯ということもあって、車や人の行き来もなく、静まり返った柿原一帯の田園をめぐってきました。墓所は展示や図録の写真にもあったとおり、きれいに再整備されていました。車で行ったのですが現地には駐車スペースがなく、道端にちょいと留めさせてもらう路上駐車ということで、農耕車が来ると慌ててどかなきゃ、となるのですが、滅多に農耕車は来ませんでした。

あわら市多賀谷左近墓の踏査 (3)山十楽の集落手前で右に分かれ道があり、看板が出ています。
現況を確認したいと思い、柿原から山十楽の集落の周りをクルマで流しました。多賀谷左近が居館を築いて、回りに巨大な濠(堀というより、濠のほうがピッタリ来ます…)を巡らしたという地形の状況が現状ではどうなのかを見てみたいと思ったのです。
あわら市など福井平野北部丘陵は洪積台地がひろがる起伏の多い台地ですが、柿原や山十楽もその台地には畑地、浸食によって出来た解析谷を利用して水田がつくられています。

あわら市多賀谷左近墓の踏査 (4)車を停めて少し歩きます
この解析谷が楕円形にうまく回っている場所を利用して外濠がつくられたようです。
現在、濠は埋められてきれいな青田になっているのですが、その部分が今でも崖状に一段低くなって、濠跡の旧状を留めていることが分かりました。左近の屋敷があったという場所は現在、民家が建て込んでいて、具体的なことは分からなくなっていました。
概ね南北に約1㎞の範囲に楕円形に幅約100mの濠が廻っている様子は明治期の空中写真などで確認できます。それは現状でもはっきりと目視できました(写真参照)。とてもリアルです。また、屋敷割、御馬屋、見花場、向山、一ツ橋などの古地名も残っているそうで、何とか当時の情景を想像するばかりでした。
いつか、現地を発掘できる機会があれば、きっと、今以上のことが分かってくると思われ、とても魅力的な「あわらの殿様」の居館だと今更ながら再認識できました。

あわら市多賀谷左近墓の踏査 (5)墓所の入口(南から)
さて、多賀谷左近という人は慶長6年(1601)に結城秀康が越前に入城してきた折、家臣として一緒に福井にはいり、坂井郡3万2千石を拝領して柿原、山十楽の辺り一帯を城下町として整備した武将のことです。2代目の当主を合わせても多賀谷氏の滞在期間が12年ほどと短かったこともあって、福井の人にはなじみの薄い武将名です。

多賀谷館跡位置図多賀谷館跡復元位置図(展示図録に掲載された論稿中より引用、一部改変※)
よく似た事例として、大野には同じ時期に秀康の家臣の土屋昌春と加藤宗月が入っています。このうち土屋は金森長近の跡を、加藤宗月は5千石をもって大野の南部を知行として木本領家に居館を構えました。寛永元年(1624)に松平直良が木本に入って木本藩が成立、城下町建設が行われたものと思われるのですが、加藤が入った木本はその痕跡が殆ど遺存せず、現状では分からなくなっています。現地の式内社高於磐座神社境内に春日山城跡が遺るのみです。

あわら市多賀谷左近墓の踏査 (7)上図中の①からの遠望
さらには多賀谷氏と坂井郡を折半するような形で知行した丸岡の今村盛次も同じです。今村館として現坂井市東田中に跡地が遺ってはいるのですが、現状は遺構痕跡がなく、ほとんど分かりません。

あわら市多賀谷左近墓の踏査 (6)上図中の②からの遠望
このように、今後究明すべき課題は山積していますが、今回の展示のように、あわら市郷土歴史資料館の努力によって多賀谷氏のことが少しでも分かるようになったことはとても歓迎すべきことで、他の遺跡にもこのような追跡の手が伸びていくことを願いたいものです。

補足※吉田純一2017「三 多賀谷氏の柿原館について」『あわら市の殿様 多賀谷左近』あわら市郷土資料館展示図録
2017年7月8日(土)福井県大野市「まなびの里めいりん」(大野市有終西小学校となり)の講堂で標記の講演会がありました。講師は奈良大学前学長の千田嘉博さんです。
サブタイトルは全国のお城と比較して、というキャッチフレーズで、約1時間に亘って大野城の天守閣の建物のことや、城郭全体の縄張の意義などについて、分かりやすく話を聞くことができました。

大野城と水の講演会「学びの里めいりん」での講演会風景
講演会の主催者は教育委員会ではなく、地下水の保存と活用を推進している大野市の建設整備課湧水再生対策室、だということで、たびたび降雪の少ない年や猛暑で雨の少ない年には決まって水不足に見舞われていた大野市では、このところ、地下水の再生、利・活用にたいへん力を入れて取り組みを強化していると言います。

そうした運動の一環で、このたび、天空の城として話題を提供している越前大野城の魅力を城郭研究の第一人者である千田嘉博さんに全国のお城と比較して、どのような違いがあるのか、お城づくりにどのような水との関わりがあったのか、などについてお話をいただく企画が催されました。
福井からは少し遠い道のりでしたが、お城の話が聴けるというので多少の苦労は厭わず、拝聴するために遠出することにしました。

大野城と水の講演会2大野城古絵図(講演会レジュメより)
予定の時間より少し早く着きましたので、折角ですから大野城のある亀山に登ってきました。標高249.1mの山ですが比高差は80mほどです。開会までに40分あります。十分余裕がありますので、天守のある頂上まで約20分、むしむしと暑い天候でしたが、直登コースの百閒坂から登城しました。

久々の大野城は、やはり凛として、小づくりながら品性のある姿で立っていました。
頂上に着くと、朝の散歩でご年配の男女がグループになって上ってくる一団と出会いました。お互い、元気に「おはようございます!」と挨拶ができて爽快でした。いつも、こうだといいのですが、所が違ったり、時間帯が違ったり、すれ違う人が違うと、こうも気持ちよくは挨拶しない、出来ないことが多いものです。

さて、千田さんのお話はとても分かりやすく、興味を持って聞くことができました。当日配布されたレジュメにもありますが、大野城の天守は昭和43年に再建されてから、何十年も経っています。原材料は、当時よく用いられた鉄筋コンクリート製、しかもモデルはもともと立っていたものを忠実に復元したものではなく、模擬天守、ということで別にモデルがあったものを拝借して建てたものです。

大野城と水の講演会3大野城遠望(麓の駐車場から)
このことを、名古屋の「蓬左文庫」に残る大野城の城下絵図から天守の様子を検討すると、御殿風の建物が立っていることに気付かされます。当時はそうだったけど、やはり天守閣があった方がシンボルにふさわしい、ということで御殿風建物を復元することはせず、こうした無国籍の模擬天守が建ったのかな…、と。
大野市民が約200人は集まったでしょうか、天空の城で意気上がる市民を前に、こうした話をするのにはいくぶん勇気がいるものですが、千田先生はどうどうと、そしてスラスラと話を進めていて、市民もだれ一人、顔を見合わせることもなく、熱心に聞き入っていました。話し上手の千田先生の面目躍如たる一コマです。

帰り際、大野に住んでいる知人と出口でばったり出くわして、帰りの道すがら、お昼の食事は何がおいしいの?と知人に訊ねると「七間朝市通り」にあるおそば屋さんがおいしいです、とのこと。満席で時間待ちがありましたが、そこのお店でとろろそばをいただいて帰りました。
福井市安居城跡の踏査2017年7月5日 (5)福井市日光橋から安居城跡を望む
福井市下市町と金屋町にまたがる日野川の左岸、小高い丘の上に鎮座する與須奈(よすな)神社から奥へ入ったところが安居城跡です。
福井市安居城跡の踏査2017年7月5日 (2)西側(金屋町)から見た安居城跡
プロフィール
この城跡は山城ではありませんが、南北朝時代の軍記物と言われる『太平記』に登場する著名な城跡で、「足羽七城」のひとつにも数えられています。北朝方の斯波高経の家臣、細川出羽守が居城したと言い、室町時代には千秋安居一族がこのあたり一帯を治めていました。その後朝倉氏の時代には一族の朝倉孫三郎景健が居城し、朝倉氏が滅亡した後は戸田武蔵守勝成が居城しています。

安居城跡遺構概念図安居城跡遺構概念図
城跡は前述の與須奈神社の境内から北に延びる高台の平地部分で、入口には細い通路の奥に虎口状の土塁があり、平地は奥行き50mほどの広さがあります。南側の狭い谷部は集落の墓地として整備されていますが、この付近にも城跡の曲輪が並んでいた可能性があります。現状は改変を受けて遺構の有無を確認することは出来ません。戸田勝成が居城していた時には、この最高所の平地部分に居館があって、安居の渡しを通行する船や荷物を運搬する通行人を取り締まっていたと思われます。

福井市安居城跡の踏査2017年7月5日 (4)下市ため池コースの案内板
安居城は、歴史上何度も登場し、多くの戦いにも利用された城跡の割りにはその形跡を示す意向はあまり顕著に残っていません。朝倉氏の居城であった黒丸城にも遺構が遺っていないのと軌を一にしています。もう少し周辺の詳細な踏査が必要だと思われます。

福井市安居城跡の踏査2017年7月5日 (1)安居城跡(主郭部)
また、安居城の西側は朝倉氏が手厚く保護したと伝わる、臨済宗妙心寺派の弘祥寺跡があり、地元では下市山ウオーキングコースと併せて、この地区一帯を見学しやすいように遊歩道を設けて整備し、カタクリの群生地など、季節には色鮮やかな花が一面に咲き誇って、見学者の目を和ませています。
福井市安居城跡の踏査2017年7月5日 (6)春先にはカタクリの花が咲きましたが、今はアジサイ…
一押しのスポット
この城跡見学の一押しのスポットは、川べりにたつ與須奈神社の長い階段を上り、境内に立つと、眼下に日野川が見下ろせることです。その昔、足羽川のもとの流れとの合流点にあった渡河点に漆の大木が生えていたという「漆ヶ渕」伝説のあたりも見通すことができます。
福井市安居城跡の踏査2017年7月5日 (3)安居城跡の西側にある「弘祥寺跡」
アクセス
安居城跡へは京福バスで「西安居線」か「桜ヶ丘団地線」に乗り、市も市で下車。すぐそこの高台が安居城跡です。自家用車で行く場合は、與須奈神社登り口の脇にある「かめやま広場」に停めて、そこから「下市ため池コース」の登り口に向かいます。登り口の看板からは山道を2,3分上れば城跡です。
補足
※足羽七城=南北朝時代に北朝の斯波氏が新田氏らの南朝の攻撃に備えて、足羽庄内に七ヶ所に亘って築いたと言われる城砦のこと

岸水城―地域おこしと城山巡り(17)

岸水城付近から福井市街地を望む岸水城付近から福井市街地を望む
岸水城跡は福井市の西部、九頭竜川がすぐ横に迫る、川べりの集落岸水町の小高い丘の上にあります。地元に住む大滝秀穂さんの自宅の裏山が岸水城だったことから、大滝さんが平成7年頃に自力で見学できるよう、整備したと言います。

2012年10月10日付でこれに関連した記事をアップしていますので、ご参照ください(タイトル「まぼろしの中世寺院龍興寺跡」)。
岸水城遠景(東から)岸水城遠景(福井市教委発行『岸水遺跡』より引用)
プロフィール
岸水城は集落の北のはずれ、大滝さんの自宅の南端に登城道があり、ここから少し登ればすぐ城跡に着きます。「越前国城跡考」にもその記載はなく、新たに発見された城跡です。じつはこの岸水城のある集落には、寺院伝承があって、水田の字名(あざめい)にも「寺中」「堂山」「城坊」があってそれを裏付けています。また岸水集落の南端、四十谷町との境界に近い尾根の平坦部には墓地跡があって、今も古い石塔、石仏が遺っています。
室町時代文安2年(1445)の東寺に残る古文書『東寺百合文書』には岸水寺の名前があって、東寺の修復工事に寄付をした記録が残っています。

こうしたことから、岸水寺は山城を備えた山中寺院として室町時代頃から確実に存在していたことが分かります。

岸水城遺構模式図岸水城遺構模式図(福井市教委発行『岸水遺跡』より引用)
城跡は九頭竜川に突き出た標高90mの小尾根先端部に約140mに亘って築かれています。頂上に主郭と思われる平坦地(曲輪)があり、川に面した東斜面は正面入り口(虎口部)と思われ、ジグザグに登城道が続きます。両側には小さな段曲輪がいくつか見られます。
主郭の西側は堀切、曲輪、二重堀切、曲輪と続き奥の山道からの侵入を完全に遮断した構えとなっています。
岸水城周辺マップ岸水遺跡散策マップ(福井市教委発行『岸水遺跡』より引用)
一押しのスポット
岸水城の頂上に登ると、眼下に九頭竜川が流れ、その奥には福井平野の水源である白山連峰が見通せます。九頭竜川はここで日野川と合流しながら北に大きく蛇行してゆったりと流れています。

頂上からは九頭竜川に沿った福井市街地の北半分が手に取るように視界に入ります。ここは寺院だけではなく、川船を中心とした水運の港津としても栄えた土地柄だと言われ、岸水城はその見張所としての機能も与えられていたものと思われます。
龍興寺坂入口龍興寺坂入口案内板と駐車場
アクセス
岸水城へは京福バスで鮎川線または鶉三国線に乗車し、岸水で下車します。城跡はそこから徒歩5分の道程です。
自家用車でアクセスする場合は、岸水集落には駐車場がないので、前述の大滝さんの自宅の北にある遊歩道「龍興寺坂入口」の看板の前の駐車場を利用することにしましょう。ここだと2、3台の駐車スペースがあります。
補足
福井市教育委員会2001『岸水遺跡』参照