2017年3月大野市茶臼山城跡の踏査(ブログ用) (2)御城山城遠望(西から)
遅くなりましたが、若越城の会の第2回現地見学会について報告します。

大野市御城山城跡の見学会は台風18号接近のため、悪天候が予想され、当日は九分九厘実施不能と思われました。
しかし、会の方針は、現地見学会の場合、当日現地で天気模様をみて判断するということになっているため、その日(17日)も大野市の集合場所、ショッピングモールヴィオに向かいました。

台風は当日福井県に最も接近するということでしたが、四国に再上陸してもその震度は遅く、午後1時になっても空は曇天、そよ風状態でした。

篠座神社篠座神社拝殿
事務局からも、当日朝、電話で天気次第では見学可能かもしれない…、という連絡があったばかりでした。それでも、多分だめだろうという気持ちで大野まで向かいました。

午後1時になりましたが、案の定、参加者は城歩きマンを入れて4名…
しかし天気は曇り空。やれるか――?。

亥山城跡(日吉神社)亥山城跡(日吉神社)
会の日程案内通り、御城山城跡、篠座神社、亥山城跡と当日準備していた3ヶ所を難なく消化できました。
皮肉と言えば皮肉。
9月、10月の天気は台風のことがあって、予定が容赦なく変更になるのは致し方のないこと。それに見合った臨機応変の対応がなかなかできない。長い城の会の活動の中で、たまにはこういうこともある…
複雑な思いを抱いて帰路につきました。

亥山城跡(堀)亥山城跡外堀
そんなことで、敗者復活は多分ないだろうと思います。期待していた会員さんには申し分けないと思います。お許しください。
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西光寺城下見②西光寺城跡遠望(東から)
西光寺城跡は勝山市鹿谷町本郷に隣接する西光寺集落の西側丘陵の尾根線上に所在しています。標高220m、比高差は約90mほどです。すぐ近くを、最近、全線開通したばかりの中部縦貫自動車道が走っています。

プロフィール
城跡は、この中部縦貫道の勝山インターから西南方向、勝山市鹿谷町西光寺の北方の尾根の先端部に位置しています。
鹿谷小学校の真西、山麓にある白山神社の裏山に登城口があります。急斜面を上って尾根に出ると、そこから約400mで先端の城跡に辿り着きます。

西光寺城跡遺構図(青木)西光寺城跡遺構図(原図青木豊昭、参考文献より引用、一部着色改変)
城跡は東西約170m、南北巾約100mの規模があり、ほぼ単郭構造です。手前に堀切があり、これを超えると曲輪になりますが、中ほどにもやや浅い堀切が曲輪を分断するように切られていて、正確には複郭の構成をとっていると言えます。
主郭部の三方、東、北、南の斜面には密に畝状竪堀が刻まれ、その総数は50条を越えると言われています。城歩きマンも2回踏査しましたが、周辺の斜面はブッシュが生い茂り、正確な竪堀の数は把握できていません。

西光寺城は畝状竪堀を曲輪の周りに密に刻み込んでいる以外には、これといった特徴はなく、まさに当初築かれた曲輪の周りを畝状竪堀で切り刻んで、この城砦を死守するというような役割をもたされた防禦線と言えるでしょう。

西光寺城主郭部にある案内板西光寺城跡主郭部に立つ説明板
一押しのスポット
この城砦からは鹿谷の奥が見通せる以上に、北側に位置する、九頭竜川の向こうの荒土町堀名中の壇ヶ城、北野津又の野津又城、村岡町の村岡山城がすべて視野に入る絶好の位置にあります。

アクセス
えちぜん鉄道勝山・永平寺線に乗車、「発坂駅」で下車し、徒歩で約3.3㎞南に進み、白山神社の境内裏手から登城口に向かいます。入り口付近には西光寺城の名前が書かれた大きな看板が立っていますので、分かりやすいと思います。
自家用車でアクセスする場合は、近くに駐車場がありません。許可をとって鹿谷公民館に停めさせてもらうか、すれ違いの十分なスペースがある農道わきに停めるようにしましょう。
登城口からは先に紹介したように、急斜面を上り、尾根線に出ると約400mで城跡につきます。途中、道案内の標識がありますので、迷うこともないと思います。

補足
※後で知ったことですが、西光寺城のある保田集落からは越前三経ヶ岳のひとつとなっている「保田の経ヶ岳」への登山道が開かれていて、登山客も多くこの地を訪れるということです。また集落の入口には、名物となった住民手づくりの時計台が建てられていて目印にもなっています。
参考文献
青木豊昭2003「第十三章 朝倉義景時代の山城」『朝倉義景のすべて』新人物往来社
梅花と鷲ヶ岳城鷲ヶ岳城遠望(西から)
この山城は、南北朝期に新田義貞の武将、畑時能が立て籠もった城跡としてよく知られていますが、実際に本当に城跡かどうかを確かめた人はほとんどいません。

むしろ伝説上の山として、登山愛好家の人たちによって利用されてきた山と言えるでしょう。事実、福井県の登山ガイドブックには必ず掲載されている山で、歴史家よりも登山家たちのほうがこの山のことをよく知っていると言えるかもしれません。

プロフィール
さて、余談はこれぐらいにして、実際に城山としての鷲ヶ岳をご紹介しましょう。
本ブログでは、2012年4月4日「鷲ヶ岳城跡」、2013年1月21日「鷲ヶ岳城に思いをはせる」、同3月22日「鷲ヶ岳と梅花」、同5月4日「鷲ヶ岳山頂に立つ!」でそれぞれ紹介していますので、ご参照ください。

鷲ヶ岳山頂石碑鷲ヶ岳山頂の石碑
鷲ヶ岳城は南北朝期の『太平記』巻二十二「畑六郎左衛門が事」で語られる新田義貞の配下の武将が立て籠もった城跡です。
北陸における脇屋義助ら南朝方の敗色が濃厚になった暦応4年(1339)10月、鷹巣城からわずかの手勢で抜け出した畑時能は、高経ら三千の兵と最後の戦いに挑みます。

平泉寺領と河合荘との境界にある伊地山(伊知地山)に立て籠もって奮戦しましたが、敵の勢力強く、ついに刀傷がもとで絶命するに至ります。この太平記に言う伊地山が鷲ヶ岳のことで、標高769.1mの比較的高い山の頂きに遺跡の碑がしっかりと建てられていました。

鷲ヶ岳城跡遺構模式図
山頂部の南北約20m、東西に約25mの範囲が平坦地となって、一つの曲輪を構成しているのでしょうか、その西側から南西側にかけて段曲輪が数ヶ所確認できたのですが、東側は急角度で切れ落ちていて、のぞき込むと吸い込まれそうです。
登山道が北側の尾根から回り込んで取り付いていますが、入口部分は土塁状に左右が盛り上がって平虎口状になっています。後世に石碑を建てるために地形をいじくった可能性もあります。ただ、入口に入る手前の北斜面に、一本の竪堀が刻まれているのがハッキリと確認できたのはラッキーでした。

南西側の斜面は比較的緩やかに下降していて、永平寺町栃原の麓に続いています。はるか左手下方には深い谷が入り込んでいて、時能川が九頭竜川に注いでいます。

畑ヶ塚畑ヶ塚(東から)
また、麓の伊知地集落の奥には古地名に「白山口」、「阿弥陀堂」、「釈迦堂」、「旗城口」などが残り、「白山口」の脇には塚状に積み上げられた丸い壇があります。これは畑時能を祀る「畑ケ塚」で、説明板も立てられ、『太平記』で語られる畑時能の忠孝ぶりと戦いの様子を紹介しています。

一押しのスポット
一押しのスポットは、何といっても頂上からの展望でしょうか。特に東側に隣接して水無山(784.4m)が望め、さらにその奥に白山連峰が並んでいる姿は山好きな人間にはこたえられません。
多くの県内登山ガイドブックに鷲ヶ岳が紹介されて、初夏の頃や紅葉の時期には必ず、この山を訪れる人がいるのも頷けるというものです。斯波高経との最後の戦いに挑んだ畑時能は、わざわざ山頂部で戦ったのか、それとも麓に陣を張って戦ったのか、あるいは両方が戦場になったのか、想像を掻き立ててくれる遺跡ではあります…。

アクセス
城跡へは京福バス「勝山大野線」に乗車し、伊知地集落の岩屋川のほとりの「伊知地大橋」で下車。真浄寺の裏手から登山口に向かいます。自家用車でアクセスする場合も、この登山口は10台ほどが止められるスペースがあります。
また少し遠い距離になりますが、えちぜん鉄道「勝山永平寺線」でアクセスする場合は「小舟渡駅」で下車し、九頭竜川を渡って左手、伊知地集落へ向かいます。約2.5㎞の距離です。
登山口からは比高差約670m、片道2時間30分ほどの距離です。

補足
※鷲ヶ岳山頂部は城跡の可能性が大きいのですが、周囲の地形を完全には把握できていません。栃原集落に下りる西南側の尾根線も未踏査です。地元の郷土史家の踏査では、この尾根線上にも遺構が確認された旨、報告があります。
鷲ヶ岳一帯と畑ケ塚は昭和56年(1981)、勝山市の史跡に指定されました。

琵琶湖竹生島クルーズの旅

竹生島クルーズの旅観光パンフ2観光船長浜支所で配布している案内チラシ(表)
9月9日(土)久方ぶりに家族とドライブに出かけました。
5月のゴールデンウイーク中に、丹生山地の奥にある国見岳へドライブして以来でした。

竹生島クルーズの旅観光パンフ同チラシ(裏)
今回はふと思い立って、琵琶湖を見たいけど、どこか観光名所はないの?と奥の守に聞かれて、琵琶湖の北にある小さな島、竹生島を見に行こうということになりました。当日朝10時を少し回った時刻に家を出ました。天気も良くて、ひところの涼しさが懐かしく思うほど、暑い陽射しが降り注いでいたのですが、気晴らしを兼ねて、揚々と車を走らせました。

竹生島クルーズの旅2017年9月9日ブログ用 (1)長浜港観光船乗り場(奥に見えるのは北ビワコホテルグラツェ)
高速の長浜ICを降りて、まっすぐ西へ向かうと湖岸に辿りつきました。ちょうど長浜城のある場所からすぐ南、琵琶湖汽船という会社の運営する観光船の発着場があります。竹生島往復で3000円何がしの運賃で、少し高いなあ、と思いながら仕方なく運賃を払っていざ乗船。

竹生島クルーズの旅2017年9月9日ブログ用 (21)船内から長浜城の方角を望む
約30分の道程、距離にすると6㎞程ですが、クルーズ船はゆっくり島へ向かって走ります。船内の案内放送を聞きながら、窓の景色を眺めますと、陽の光で波しぶきがとても白く、きれいで、意外と琵琶湖の水はきれいなんだなァと、あらためて思い直しました。
ひと頃は生活排水で湖水が汚れていて、このままだと淀川に流れ込む水に影響する、というので近畿圏の自治体や地元滋賀県で大問題になったのは、もうはるか30年ほども前のことでした。

竹生島クルーズの旅2017年9月9日ブログ用 (19)竹生島の発着場(船内からの撮影で、窓ガラスのゴーストがわずかに写ってしまいました…)
年寄りはすぐ、そういうことを思い出してしまうのですが、竹生島は城歩きマンにとって、一度は渡ってみたい島でした。
小谷城の城主で、北近江を支配していた浅井氏はこの島を崇敬していたと言われ、特に浅井久政とその母が永禄8年(1565)に弁財天像を2体寄進したと言われ、今も165段の石段の上に鎮座する宝厳寺に安置されています。
また『信長公記』に出てくる「天正九年四月十日」の条、いわゆる「竹生島事件」もそうですが、その前の朝倉義景の竹生島参詣(元亀元年)のことが脳裏にあって、信長との抗争に先立ってこの島を訪れ、太刀を奉納したことも記録に残っています。

竹生島クルーズの旅2017年9月9日ブログ用 (4)クルーズ船の内部の様子
元亀年間と言えば、信長が、上洛の命に従わない朝倉氏を攻略するため越前攻めを敢行して敦賀の金ヶ崎城を落とし、すんでのところで府中に入ろうかという時に近江の六角氏や浅井氏の挙兵の動きに遭い、命からがら京へ逃げかえったという有名な出来事があった時期です。
そしてその年の6月に姉川の合戦があり、また9月には志賀の陣があって、信長が築いた堅田や宇佐山の陣城がことごとく朝倉勢に破られて、劣勢の内に朝倉義景と和平を結んだと言われます。
その時に信長は義景に対して「詫び証文」を書き、自今以後、朝倉家に対して弓引くことあるべからず、と詫びを入れているのですが、信長はそんな詫び証文などすっかり反故にして、再度越前攻めをやりました…

竹生島クルーズの旅2017年9月9日ブログ用 (7)宝厳寺本堂(正面から)
マ、そんなことがあった元亀年間の戦いはさておいて、そもそもこの島はとても由緒ある神社で、延喜式に載る「都久夫須麻(つくぶすま)神社」が祀られています。中段の参道を歩いて東端に鎮座する本殿は国宝です。
また、最初に登る高い165段の石段の上には弁財天を祀る宝厳寺があり、並んで三重塔や宝物殿もあります。

竹生島クルーズの旅2017年9月9日ブログ用 (11)唐門の入口(修理工事のため覆い屋が架かっていて周りは見えません)
都久夫須麻神社へ向かう手前には、秀吉の大坂城にあった極楽橋の一部が移築されて「唐門」として入口に置かれています。
当日はあいにく、全体が修復のためでしょうか、覆い屋が架けられていて屋根など全体の姿は拝めませんでした。唐門と本殿をつなぐ船廊下も然りでした。こちらは崖面に立つ「懸け作り」の構造をもつ廊下橋で、なんと、秀吉の朝鮮の役で拠点となった肥前名護屋城へ向かうのに仕立てられた御座船の部材がそのまま移されていると言います。

竹生島クルーズの旅2017年9月9日ブログ用 (12)船廊下内部の様子
ちなみに唐門は国宝、廊下橋や手前の観音堂は重要文化財、といったふうに歴史的に重要な建物がこの狭い無人島にぎっしり建て込んで並んでいるとは…。
竹生島クルーズの旅2017年9月9日ブログ用 (16)船廊下の懸け作り
竹生島クルーズの旅2017年9月9日ブログ用 (13)都久夫須麻神社本殿(修復工事で覆い屋が架かっています)
我々のような古いもの好きの人間にとってはよだれの出るような島…
往復のクルーズ船の運賃さえもう少し安ければ、何度でも行ってみたい島です。しかし、3,070円はやはり高い。

DSC_0037竹生島クルーズの旅①ティラウンジの様子
島からの帰り道で、船を下りた後、乗船場の真ん前にある北ビワコホテルグラツェのティラウンジでコーヒーを飲んで帰途につきました。

明智光秀の室町幕府再興説について

光秀書状2017年9月12日付
9月12日(火)福井新聞社会面に「光秀謀反直後の書状原本を発見」と題する記事が載りました。

「ムム、やっぱりそうか――」
この記事を読んで第一に思い浮かんだのは、作家の中島道子さんはどう思ったでしょうか…、ということでした。城歩きマンは2016年6月12日のブログで「明智光秀館跡と西蓮寺について」と題して記事を載せています。

それ以前にも何かの折に明智光秀については、福井にゆかりのある戦国武将の一人で、謀反人の悪名高い人がいる、ということがとても耐えられないことで、これはきっといつか、汚名を返上する日が来るに違いない、と思い続けていました。
県出身の作家、中島道子さんがこの先頭に立って、明智光秀の研究をやっている話を聞いて感激したものでした。

東大味町明智神社他2016年6月10日 (1)福井市東大味町明智神社
講演会や、実際に明智光秀に関する著書(妻女に関する物語)も読みました。他には江戸時代の松平忠直卿も同じように、福井藩でのご乱行という汚名を返上する日が来るか、と言われているとき、こういう記事が出て感無量の思いがします。

やはり光秀を研究している三重大学の藤田達生教授が、以前から、光秀の謀反は室町幕府の再興を企図してのことだったという論説を出されていて、それを裏付ける古文書の原本とみられる書状を、やっと20年後の今日発見したという記事でした。

この古文書の写しとみられる文書は既に東地の史料編纂所に遺されていて、以前から識者には知られていました。しかし、写しでは確実な証拠資料にはならないということから、その原本を探していたとのこと。

古文書の内容は光秀が紀伊の雑賀を治めていた土橋重信に宛てて出したもので、日付は天正9年6月2日で、本能寺の変の直後とみられています。
将軍(義昭)の命に従い、協力することが大切です、というもので光秀の挙兵に対して援軍を申し出た土橋重信への感謝の弁や協力の依頼などが書かれたものです。この時期、四国の長宗我部元親も信長に対して反抗の兆しがあったことで、これと呼応した光秀の動きだというものです。

こうした話題は地元の人間にとっては、とてもありがたいことで大きな励みになります。この文書の発見がきっかけとなって、明智光秀の研究がいい方向に進展することを願わずにはいられません。

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折しも今、丹波や丹後地方では高速ハイウエイ道路網の整備が進んでいて、舞若道、播但連絡道に加えて京都縦貫自動車道が完成すればいっそう京都、丹波、丹後は身近に繋がることになります。舞鶴市、福知山市、宮津市、京丹後市などにあるさまざまな史跡や山城遺構が手軽に車で見学できる日が来ると思われます(本ブログ2014.03.04「京都・福知山城の踏査について」、2014.03.05「京都の城館とその魅力」講演とパネルデイスカッション)参照)。

またこの発見は、明智光秀の再評価と相俟って、NHK大河ドラマで細川ガラシャ、明智光秀をとり上げて、という運動とも呼応して光秀ブーム(?)があるいは到来するかも知れません。