福井の城館めぐりを振り返って(6)

昨年の秋から今年の春にかけて歩いた福井の城館めぐりを振り返って、書き足りなかった事柄を今まで何回かに分けて述べてきました。

南越前町上別所茶臼山城跡踏査2017年1月6日ブログ (3)南越前町茶臼山城遠望
いろいろと書いてきましたが、今回の城館めぐりの中で、城歩きマンが最も強調したい事柄は、やはり畝状竪堀のことになります。福井県で畝状竪堀と言えば一乗谷城や戌山城、若狭の後瀬山城がすぐに思い浮かびますが、今回、城歩きマンは畝状竪堀をもつ山城のバリエーションをこの福井県内で思う存分見聞することができた、ということ。

城歩きマンは昨年の春に、一乗谷城と畝状竪堀のことを書いた本を出版したばかりですが、今、出版したことを少し後悔しています。もう少し遅くてもよかったかな…、と。

しかし、それは禁句、言ってはならないこと。

2017年3月大野市茶臼山城跡の踏査(ブログ用) (1)大野市茶臼山城遠望
さて、余談はさておいて、本論に入りますが、畝状竪堀のバリエーション、福井県には一乗谷城を筆頭に後瀬山城、戌山城、成願寺城、波多野城など何ヶ所かの山城で確認されていて、若狭に7ヶ所余の畝状竪堀の山城が確認されていて、若狭優位の印象が拭えなかったのですが、今回の踏査によって、それは解消されました。

城歩きマンが新たに、あるいは再度確認できた畝状竪堀をもつ山城は南越前町の茶臼山城、越前市の茶臼山城、大野の茶臼山城、畝状竪堀にはならないものの、竪堀を有効に配置している山城として織田城、大野の小山城等があります。

2017年4月13日織田城跡の踏査(ブログ用) (6)織田城の主郭部を望む(手前の林道を奥に入ったところ)
一乗谷城のように全山畝状竪堀で埋め尽くすといった形態の山城こそ、まだ新たに発見されることはありませんが、主郭の回りなど、必要な曲輪を徹底的に防御するため、狭い範囲とは言え、畝状竪堀を廻して完全に横移動を阻止する体制をつくっている山城として戌山城、波多野城、成願寺城、後瀬山城、大野茶臼山城、上志比の西光寺城、そして栃川の茶臼山城などがあります。効果的に畝状竪堀を配置しているものには若狭の熊川城や安賀里城、あるいは達城、難波江城、越前では南越前町の茶臼山城、野津又城、三室山城等を挙げることができるでしょう。

2017年3月小山城跡の踏査(ブログ用) (1)大野市小山城跡遠望(南から)
畝状竪堀の形態をとらず、比較的長い竪堀を一定間隔で曲輪の回りに放射状に配置する形態のものも確認することができました。旧織田町の織田城です。これに似た形態をもつものは福井市の文殊山城でしょうか。
織田城は南北約100mほどの山頂部の主郭部に計13条の竪堀を、一定間隔に配置するものです。場所によっては少しバラツキもありますが、概ね間隔は一定に空けられています。

意識的に配置されたことは明らかで、畝状にしない、という点で特異と言えるでしょう。
全国で確認される畝状竪堀のいろいろが、今回の踏査で概ね知ることができました。わざわざ遠くの山城を見に行くまでもない、身近でいろいろな形態のものを見ることができる、ということでしょうか。

城歩きマンがこうして、口を酸っぱくして書き立てる割にはそれぞれの山城が、いつでも誰でも見学できるか、自由にこうした山城のいろいろを確認できるか、というとそうではありません。

一部を除いて(特に県や国、あるいは各市町の指定を受けた山城以外のもの)は、その多くが管理の行き届かない、藪漕ぎ状態の山だということ。
他所ではそういった意味での文化財保護行政の対策が進んでいて、たいていの山城は管理や整備が進められ、見学ができる態勢づくりが見られます。
わが福井県はその点で大きく立ち遅れています。

山城の情報をこのようにブログやその他の伝達の媒体を使ってお伝えすることも大事ですが、一方ではそれを可能にする条件整備のほうも充実させていく努力が必要だと思われます。

あまり愚痴っぽくならないうちにこの項は閉じることにしましよう。
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福井の城館めぐりを振り返って(5)

福井の城館めぐりをこの春、集中的に実施しましたが、言い残したことがたくさんあって、こうして補足の文章を何回にもわたって書き記しています。

今回は2月27日、3月1日、2日と3回に分けてアップした越前市の矢谷山城、地元では大塩城と呼んでいる山城について補足します。

2017年2月26日越前市矢谷山城跡 (21)越前市国兼町から矢谷山城(写真中央あたり)を望む
矢谷山城は、既に書いたとおりですが、『太平記』にも登場する城名で、特に「得江頼員軍忠状」の暦応3年から4年の条に得江ほか北軍が南朝方の城館を攻めたという記事のなかに大塩城、大塩保が登場します。

その後には城名として文書などに登場することはなく、「越前国城跡考」でも時代不知、築城主不明の城として扱われています。日本城郭全集でも日本城郭大系でも記載なし、または詳細不明の城としてずっと不明のままでした。

地元では木曽義仲伝説のほうを取り上げて、こちらの城として顕彰、保護をはかっているやに見受けられます。『太平記』よりも「得江頼員軍忠状」で登場することもあって、千福、妙法寺とともに荘園や神社仏閣が攻められ、焼き討ちにあったことから矢谷山城については顧みられることもなく、現地での踏査が十分行われて来なかった…

城歩きマンが現地の山城を踏査した限りでは、標高224.2mの水準点のある山頂部を中心に階段状の曲輪が並び、南、北、西側の各所に堀切(中には二重の)を配して防御態勢を取った山城遺構であることが確認できました。

遺構としては深くて、鋭く切れ込まれた堀切が目立っていて、それ以外には曲輪の構造にも新しい様相(時代が降る)は見られず、戦国時代末頃に修復されたような形跡は見受けられませんでした。

前回のブログアップした記事でも報告しましたように、この山城が一番評価されるべきは、古相をもった山城が大塩保に築かれていたことです。三方向からの嶺が集まる場所にあることで、城砦の役割ももたされた荘域の要の城とみてよいと思われます。
それにプラスして、麓下の大塩神社が要塞化した館城として機能したのではないか、ということが考えられます。
しかしこれについては、今後詳細な現地踏査が必要なことは言うまでもありません。

福井の城館めぐりを振り返って(4)

編集_芝山城跡、尉ヶ峰城跡踏査2016年11月2日 003
今回、県内の山城について、内容の不明なものを集中的に歩いたわけですが、一番印象に残っているのは昨年秋に歩いた旧朝日町栃川にある茶臼山城です。

旧朝日町の北、栃川集落の入口右手の標高80mほどの丘陵末端部に所在する小さな山城です。
最初、この栃川集落周辺には尉ヶ峰城跡、茶臼山城跡、芝築地山城跡と『福井県の中近世城館跡』には土塁囲みの曲輪をもつ山城の遺構図が掲載されていて、是非とも、この目できちんと確認しておきたい、と思ったのが発端でした。

その手始めにと登ったのが、『遺跡地図』に記された尉ヶ峰城跡でした。この城跡名はその後の福井県の文化財関連ネット上で遺跡地図が掲載されていますが、きちんと「茶臼山城跡」に訂正されていましたので、この地図で検索する分には問題はありません。この時の様子については2016年11月8日、9日のブログで詳しく触れていますので、ご参照ください。

城歩きマンが驚いたのは、その茶臼山城跡が畝状竪堀をもつ単郭の山城だったということです。一乗谷城のように尾根線に連続する曲輪を築いて、その曲輪に多数の畝状竪堀を巡らせるといったものではありませんが、集落の入口に位置して、当初見張台として築かれたものを、後には一定数の兵士が立て籠もれるように改修して築いたものと考えられる山城です。

主郭の段下には、現在、竹やぶで鬱蒼としていますが、数段の段曲輪があるようにも見受けられますので、正確に言うと単郭ではないかもしれません。竹やぶの段々は後世に植林のために削られた段々の疑いも考えられますので、断定は控えておきます。

いずれにしましても日野川左岸の丹生山地の山裾に近い低丘陵上で、この畝状竪堀が刻まれた山城が見つかったことは、以前のブログでも何度も書かせてもらいましたが、特筆に値するもので、城歩きマンにはとても大きな成果になったと内心喜んでいます。

何よりもこの発見によって、今後も、県内で新しく畝状竪堀をもつ山城が発見されるかもしれないという予感を抱かせてくれたことに感激している今日この頃です。

福井の城館めぐりを振り返って(3)

編集_大森町天目山城跡の踏査2016年10月27日 003福井市大森町天目山城(天日神社から望む)
昨年の秋から今年の春先にかけて、集中的に県内の山城を踏査しました。そのなかで、実態不明の山城がいくつか残っていますので、この機会にと踏査しました。

旧清水町大森にある天目山城跡はそれらのうちの一つです。
「越前国城跡考」には時代不知、築城主も不明です。ネットなどで調べると踏査した記事が掲載されているものがありました。それらによると、二重堀で囲まれた砦のような城跡だとあります。

この単郭構造で回りに空堀を巡らす城砦跡については県内では若狭の美浜町にある狩倉山付城のほうがよく知られています。それまで、こうした形態の山城は県内ではほとんど知られていず、珍しい形態の城砦跡だと考えられてきました。
しかし、今回越前でもよく似た構造の山城遺構が確認されました。狩倉山付城は二重の空堀が巡ることで知られていますが、天目山城跡も同じく二重構造です。

天目山城跡については2016年10月28日付でブログアップしていますので参照ください。

そうこうしているうちに、年が明けて2月の初旬に旧朝日町大谷寺の東にある荒神ヶ峰城跡を踏査し、この山城も基本的に単郭で、周囲に空堀を巡らす楕円形の形状をもつ構造の山城であることが判明しました。
結果的には3月のあわら市上野山城跡の例を含めて3例の山城が、狩倉山付城と同じ構造の城砦跡であることが確認されたわけです。

越前市荒神ヶ峰城砦の踏査 (9)越前市荒神ヶ峰城跡へ向かう大谷寺の分譲墓地(城跡は右側の山嶺)
荒神ヶ峰城跡については2017年2月8日、9日のブログでアップしています。そちらの記事もご参照ください。
今回の踏査で、いきなり3例も見つかったことはとても驚きでした。これはたまたま見つかった、ということではなく発見されるべくして発見されたと言っていいと思います。

むしろ今まで、こうした事例に巡り合わなかったことが不幸なことであって、今回ようやく各事例の検討を通じて城砦跡の構造解明が飛躍的に進む可能性が出てきたことになります。

美浜町狩倉山付城美浜町狩倉山付城『福井県の中・近世城館跡』より引用、一部改変
狩倉山付城は立地する丘陵の標高が約60mで、敦賀から小浜に向かう若狭街道の北に隣接した低丘陵上にあります。
越前の3例はいずれも標高200m前後の丘陵上にあって、いくつかの嶺が交差する場所に築かれているという共通項が見られます。

荒神ヶ峰城遺構模式図越前市荒神ヶ峰城遺構概念図
荒神ヶ峰城の麓下には小倉集落があって、「越前国城跡考」に仏性寺の近くに織田信長によって小倉城が築かれた、とあります。実際には現地を歩いても城跡の存在は確認できませんが、天正3年に越前へ再侵攻した時、この地にも織田勢が進攻してきた可能性は十分考えられます。天目山城もここからすぐ北の方角で、無関係のものとは思えません。

あわら市の上野山城跡でさえも、天正3年前後の一揆勢と信長軍との戦いに関連した城砦跡として十分余地が残されています。
竹田から大内峠を越えて加賀へ抜ける間道の入口に上野山城が位置しているからです。

マ、想像の輪はズンズン広がるばかりですが、予断は禁物です。他の城郭調査の充実を待って掘り下げて行きたいと思っています。

福井の城館めぐりを振り返って(2)

編集_2017年2月24日福井市角原古墳群の踏査 011 (33)北茶臼山城跡の尾根(南から)
福井の城館めぐりをふり返って、第2回目は福井市角原町にある北茶臼山城跡です。

福井を東西に二分する日野川が北流して福井市の西側で九頭竜川と合流しますが、今回踏査した福井市域の山城の中では、多くが旧清水町や朝日町など日野川の西に位置していますが、この北茶臼山城跡は東側、三峰城や文殊山城がある足羽地区の最西端の山城です。

北茶臼山城に登城すると、南東方向の山頂部が文殊山にあたり、ひょっとすると文殊山城の出城かと思えるほどですが、城の構造を見ると別ものか、時期を違えて別に造り直したものかと思われます。

写真の中央部に高圧の鉄塔が立っていますが、ちょうどこのあたりが主郭に相当する場所になります。その主郭部は鉄塔建設の時に周囲が削平されて、遺構の東半分は消滅している状況です。西半分は「コの字」形に南に開く土塁を有する曲輪の構造で、東西に両側を堀切で遮断した完結型の曲輪構造です。

この尾根の西側は後世の土取り工事によって、100mほどが削り取られて山自体がなくなっています。最西端部にも曲輪が並んでいたものと推定されますが、確実なことは不明です。

東側は角原集落の墓地がある谷の奥にあたり、自然地形を利用した大堀切が確認されます。この先、東側の尾根線は高度を上げながら文殊山の山塊に連なっていきます。北斜面部に腰曲輪が数ヶ所確認されるほかは、目立った遺構はありません。

ここで北茶臼山城で確認された主郭部の「コの字」形の土塁ですが、いわゆる掻き上げによる土塁ではなく、自然地形を削り落としたものによると思われ、注意を要します。

その意味で、土塁囲みの曲輪があると言っても、安直に織豊系の城郭の技法が入っているとは考えないほうがよろしいかと思われます。
このあたり、もっと周辺の山城を踏査して比較検討する必要があると思っています。
因みに北茶臼山城の周囲にある三峰城、文殊山城、丹波岳城などではいずれも土塁囲みの曲輪は確認されていません。足羽地区の山城築造の展開過程を捉えるうえで、貴重な類例かと思われます。