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三床山城「のろしリレー」参加記

三床山のろしリレー参加記 (1)鯖江市石生谷町公民館前
平成30年10月21日(日)午前8時30分鯖江市石生谷町公民館前に集合し、鯖江市和田町や石生谷町、その周辺の野田、氏家地区の町内会の皆さんが集合し、のろしリレーをつなぐイベントに参加するため山頂までウオーキングしました。

城歩きマンはこの日、実行委員会のTさんからのろしリレーの日に山頂で地区の皆さんに山城の話をしてほしい、という要請を受けたので、のろしリレーに参加するのは初めてでしたが三床山城に登ってきました。

三床山のろしリレー参加記 (2)足取りも軽く、山頂を目指す参加者の皆さん
この日は申し合わせたかのように、空はすっかり晴れ上がり、雲一つない天候で大変気持ちの良い山行きになりました。道々、地区の皆さんといろいろ雑談をしながら歩いたので、不思議と息が上がることもなく、休憩地点まで、皆さんと歩調を合わせて歩くことができました。しかし、さすがに小学生のチビッ子たちは疲れを知らない世代ですから、どんどん登っていきます。城歩きマンたち高齢者(?)はそれなりにマイペースで登りました。

三床山のろしリレー参加記 (3)山頂に着いて、説明を聞く参加者
山頂ではのろしを上げる時間まで、待ち合わせを兼ねて、ほら貝の技術を持った方から講話を聴きました。地元に住んでおられる方で、他に職を持ちながらほら貝のイベントがあると出かけて行って実演をやったり、講演をしたりしているそうです。

三床山のろしリレー参加記 (4)ほら貝の実演風景
ほら貝の後、いよいよ城歩きマンの山城の話になるかと思ったのですが、のろしを上げる時間が迫っていたため、講演は後回しになり、11時から、ということで三床山城や山城の魅力について20分ほど話をしました。

三床山のろしリレー参加記 (5)イベントのクライマックス――のろしに着火!
のろしは南越前町の杣山城、武生の村国山、鬼ヶ岳、妙法寺山からのろしが上がるのを確認して、時間に合わせて発煙筒を二本括り付けた竿をもち、火をつけた後はそれを次の今立町の行司ヶ岳城の方角に向けて高く掲げます。

皆さんがこの話で山城に興味を持ってくれれば御の字です。さて、結果は如何に…。
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三床山城跡の再踏査 その3

三床山城跡の再踏査 (6)山頂部の主曲輪と説明版、展望所(南から)
これは南半部の段曲輪Ⓒでも同じことが言えそうです。縦方向に地形の沿って概ね二段の段曲輪が細長く延びているのですが、やはり不整形に不揃いの形状をなしています。地形測量をすればこの状況がよりはっきりしてくるものと思われます。
中間部にある土塁囲みの曲輪Ⓑは二段分確認できるのですが、上位のほうは西辺のみ、下位のほうは西と南の二辺分が確認できます。東側は遊歩道になっていて、この部分が土塁だった可能性もあります。

三床山城跡の再踏査(8) 020山頂部までの途中にある段曲輪(二段にわたって約30mほど伸びている)
南端部の堀切①とその手前の曲輪も不整形で、佐々牟志神社コースへの標識がある部分では虎口かとも思える窪地があって興味をそそられます。
主曲輪の東斜面には畝状竪堀が3,4条あるというような表示が説明版に見られますが、これは事実誤認かと思われます。急傾斜である上にかなりの比高差をもつ東側斜面に畝状竪堀が施される必然性もなく、この点は疑問が残ります。

三床山城跡の再踏査 (4)山頂部南側の兵溜と推定される平坦地
また、遺構とは直接関係ないことですが、折角の雑木伐採で城跡の様子が見違えるほどきれいになったのにも拘らず、一つだけ難を言えば、主曲輪の周りの雑木や枝類を斜面や窪地に投げ込んでいるため、堀切②の様子や主曲輪Ⓐの東辺の様子が全く見えなくなってしまい、台無しになっていることです。

こうしたことは三床山城に限らず、勝山市の村岡山城跡や旧清水町の天神山砦跡、旧朝日町の荒神ヶ峰城跡、あるいは一乗谷城でさえも一部に雑木を堀切や畝状竪堀の窪地に落していることがあります。管理者の何気ない仕草だとも受け取れるのですが、要は山の管理、手入れの考え方の違いとして現れてくるものです。
蛇足ですが、一言書き添えておきます。

三床山城跡の再踏査 その2

三床山城跡の再踏査 (7)山頂部から日野山を望む
さて、件の三床山城ですが、新しい発見として、山頂部の山城遺構に加えて、そこから900mほど南に寄った尾根上にポツンと堀切が刻まれているのを確認しました。まさにポツンと言ったほうが適切な表現で、それ以外には尾根道には堀切はありませんでした。冒頭にも書きましたが、堀切以外にも腰曲輪が二段にわたって見られる箇所があり、これも三床山城の城域、縄張の広がりを考えるうえで重要な知見となりました。全山、くまなく尾根道を歩けば、あるいはヒョットしてまだ他にも新たな遺構が…、ということがあるかも知れませんが、今回は欲張らず、ここまでにしておきたいと思います。

三床山城は旧清水町の片山真光寺城や鯖江市三峰城と同じように主郭部とその周辺の尾根上に点々と堀切が確認されていますが、これと同じような事例の山城として加えることができそうです。全山を城郭の範囲として活用していることが考えられるということです。

三床山城跡遺構模式図(ブログ用)遺構模式図(北半部の主要遺構集中ヶ所)
そしてここからが本題ですが、三床山城は南北約400mの尾根上に展開する山城であることは前回のブログでも紹介したとおりです。
北半部は主要遺構が集中するヵ所、南半部はなだらかな平坦地で兵溜として使用された部分に入るものと思われます。城跡主要部Ⓐは佐々牟志神社側から登って来る登城道が尾根に出たところから山頂部一帯の範囲を指します。おおよそ150mほどでしょうか、その南端部で堀切①や段曲輪が配置され、北端部では北東側に延びて堀切②、段曲輪が配置されます。

三床山城跡の再踏査 (5)山頂部(主曲輪と説明板)
和田地区から登ってくるコースの山頂部手前は北西側に配置された堀切③があり、主要部はこの三方向の尾根先端部に切られた堀切で防御された形になっています。主曲輪Ⓐは三角点のある平坦地で、おおよそ80m前後の範囲になるでしょうか、南西から北東に延びて西側に段曲輪を配置しています。一部で竪堀状の窪みが二ヶ所あります。

この主要部、主曲輪は不整形の平坦地をなしていて、前回の踏査の折は周囲が雑木に覆われていて、分かりにくい地形でした。今回はその雑木が取り払われていて、すっきりと全体が見通せる状態になっています。そうしたことも手伝って、判断がある程度可能になったのですがどうやら後世の植林、または別の理由によって地形が改変されている可能性が考えられます。

三床山城跡の再踏査

三床山城跡の再踏査 (2)鯖江市石生谷町手前から三床山を望む
平成30年10月15日(月)鯖江市と越前町にまたがる三床山城跡の再踏査を実施しました。
今回は、来週の日曜日(21日)に予定している「北国山城のろし駅伝」で三床山城跡もイベントを計画しており、城歩きマンはそこに参加することになったため、下見を兼ねて現地の様子をみてきました。

第一に感じたことは前回のコースと違って、鯖江市石生谷町の公民館から同集落の奥にあるため池を通って登るルートを歩いたので、緩やかな尾根道コースでとても快適に上ることができたこと。前回は和田公民館を過ぎて、民家の横からほぼ直登コースで北側の尾根道に出て、そこからやや急な斜面を登るコースでしたので、しんどかったことを覚えています。

三床山城跡の踏査(コース図)三床山城跡の踏査コース図(国土地理院地図を引用、一部改変)
第二には石生谷町のトンネルの上から歩くコースとの合流点(山頂からは南に約900mのところだったでしょうか)近くで新たに堀切を1か所発見できたことや、同じく山頂から約600m南の位置で二段の腰曲輪を発見できて、三床山城の構造に関する新知見を得たこと。

第三には山頂部付近がとてもきれいに整備されていて、前回とは見違えるほどだったことです。三床山城跡は山頂部北端の展望所がとても素晴らしく、鯖江市北側から福井平野が一望できて、絶景ポイントになっていることです。その山頂部が更にきれいに下草や灌木が取り払われて、すっきりと周りの景観が一新されたことです。

三床山城跡の再踏査 (1)石生谷町入口にある案内標識
おかげで、遺構の踏査が前回とは比べ物にならないほどスムーズに運び、ばっちり観察することができました。前回作成した遺構模式図はほぼ全面にわたって書き換える必要が出てきましたので、早速新しく模式図を作成し直しました。

山頂部には前回の時にもあった説明版以外に、平成26年に鯖江市の指定文化財になったことを機会に、新しく遺構図配置図と、三床山からの展望パノラマ写真が建てられていました。
さらに、平安時代の末頃、三床山城を築城した時に移転したという佐々牟志神社の祠も真新しく建てられていました。

三床山城跡の再踏査 (3)登城道の途中にある岩塊露出地点
地元の方々の力の入れようがとても心強く感じられて感動しました。
越前町烏ヶ岳城跡の踏査(ブログ用) (2)烏ヶ岳城跡登城道、浄勝寺参道(城跡はこの右手奥の山上)2017年2月撮影
平成30年10月13日(土)午前9時、越前市在住のSさんの同道を得て、烏ヶ岳城跡を再踏査しました。
前回の踏査は昨年の2月27日、ブログアップは同3月6日です。
この時の踏査で山頂部付近にあると言われている二重堀切、虎口の遺構を確認することができずに引き上げてしまい、近いうちにリベンジを期していましたが、越前市のSさんが一緒に登ってくれるというので、この日の再踏査にこぎ着けられました。
10月に入って、ようやく秋らしい快晴の天気にも恵まれて、烏ヶ岳城跡に止まらず、下糸生集落側にあるという伊藤九郎兵衛の居館跡は分かりませんでしたが、南西隅にある神社や上糸生にある「上糸生城」にも立ち寄ることができました。

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (1)上糸生城跡登城道入り口(この谷奥左手の神社裏手の林道をのぼる)2017年2月撮影
さて、件の烏ヶ岳城跡ですが、「越前国城跡考」には「烏ヶ嶽城取手跡 織田信長 葛野谷下糸生村ヨリ一町半計山上ニ四間四方之所堀二重大手口之形有」とあります。
一方、「越前国名蹟考」には、「織田信長 葛野谷下糸生村ヨリ一町半計北方山上ニ四十間許四方ノ処、堀二重大手口之形アリ 城跡考 西ニ烏ヶ嵩」とあり、若干の表記の違いが認められますが、概ね城跡考を引用して記述していることが伺えます。「名蹟考」とは文化12年(1815)に福井藩士井上翼章が著した、越前国の地誌全般を集大成して編纂した書物です。

「城跡考」はこのブログでも夙に引用していますが、享保5年(1720)に福井藩主松平吉邦公の命を受けて野路汝謙が寛文7,8年(1667,8)の古城跡その他の調査記録を集録して、編纂したと言われています。
ただ、これらの調査記録は、位置関係など編纂者が実際に城跡に登って検分したり、測量したりしたものや各村々から伝聞、伝承を集めて集録したものであると言われています。古城跡の有無を越前国内全域にわたって調べ上げたものとして高く評価できる史資料と言えます。

「城跡考」の記述に比べて、「名蹟考」のほうに若干の表記の差があります。烏ヶ岳山上の四間四方か四十間四方かでは、遺構の規模が全く異なってきますし、下糸生村の北方かどうかまで書かれていると、所在がある意味限定されるのですが、北方では烏ヶ岳の位置と微妙に食い違ってきます。また、西に烏ヶ岳と付け足されていることからも堀切の位置が烏ヶ岳山頂部から少し東に位置していることを匂わせます。

烏ヶ嶽城跡の再踏査烏ヶ岳山頂部林道と堀切推定地(国土地理院地形図を引用、一部改変)
ここまで書いている烏ヶ岳城の山頂部付近の二重堀切、大手口の形状とはどんなものか。きっと山頂部付近に城跡の遺構があるはず…ともう一度思い直して再踏査したことでした。しかし、遺構は見つかりませんでした。二人の目で見ても見つかりませんでした。

烏ヶ岳城に登る道は、麓の浄勝寺境内の裏手にある林道を東に向かって進みます。烏ヶ岳の北側に深く刻まれた谷にそって、林道が頂上付近まで延びています。この林道に沿って登ればほぼ小一時間程度で着くことができます。

途中で2回ほど分かれ道があって、間違えやすいのですが、地図の表記をしっかり見て登ればほぼ間違えることなく辿り着けます。しかし、この林道は登るには大変有難かったのですが、山頂部ぎりぎりまで掘削が入っていて、どうやら、山頂部付近で伐採が行われ、その時の伐り出し用の搬入路として使われた可能性があります。

越前町烏ヶ岳城跡再踏査 004下糸生集落南西隅にある貴船神社(東から)
山頂部東側は林道の終点のようで、約20m四方にわたって削平があり、その南側斜面が伐り出し用の対象地ではなかったかと推定されます。今は雑木が生い茂っていてどの樹木を切り出したかまでは分かりません。同道したSさんも同意見のようで、一緒に周りを歩いてもらいました。
しかし、この位置付近が二重堀切の場所と推定されるのですが、付近をくまなく歩いてみても他に遺構らしきものは見つかりませんでした。

越前町烏ヶ岳城跡再踏査 006同、貴船神社拝殿
必ず見つける、という気力をもって全山をしらみつぶしに歩く方法もありますが、今は体力的、物理的に厳しいものがあり現実的ではありませんので、今回もやむを得ず引き返しました。
それにしてもこの林道、山城の伝承があることを知らずに掘削に及んだのでしょうか。大野の牛ケ原城跡ではないのですが、ここでも林道開発の犠牲が出ているようです。林業振興策として林道開発が進むのは良いことかもしれませんが、その陰で山城などが遺構確認調査や測量など何の措置も取られずに破壊されていくというのは余りに理不尽じゃないかと、慙愧に耐えない面持ちで岐路に着きました。