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東北の城館めぐり(白石城) (10)本丸北西隅に建つ三重櫓(天守)(南から)
東北の城館めぐりの旅、報告を続けましょう。
二の御門を過ぎると広場に出ます。中央に背の高い塔があり、片倉小十郎の頌徳(しょうとく)碑となっています。
この広場は本丸御殿が置かれたところで、復元模型などから見ると十数棟の建物が建ち並んでいたと思われます。また四周のうち南西隅と南東隅には未申櫓、辰巳櫓がそれぞれ配され、土居でつながっています。南面する門は裏御門です。

東北の城館めぐり(白石城) (8)本丸裏門(南の丸に通じる門)
さらに本丸の周囲には南の丸、西に二の丸、西曲輪、北に厩曲輪、三の丸が輪郭式に配されていますが、立体復元されたのは本丸だけに留まっています。本丸公園内を歩いて南門(裏門)から土塁に上ります。
南の丸へ通じる門で、透かして見ると樹木の生い茂る林になっています。この土塁の上を西から北に大櫓(三重櫓)の方向に向かって進みます。入り口の階段に屋根が付いているのが印象的で、本丸御殿からのつなぎで架けられたものと言われています。

東北の城館めぐり(白石城) (9)本丸を囲う土居(南辺)
石垣のない土居のままのほうが何とも古城、といった佇まいがあってとても良好です。ここでも秋の紅葉が眺められました。土居の北側まで歩いて屋根の付いた玄関口に回ります。ここは狭間のない白壁の土塀が一重廻っていて、南面する付け櫓につながっています。通常は東に面する付け櫓から出入りしたと言い、城主だけがここの階段から天守に入ったとのことでした。

東北の城館めぐり(白石城) (11)天守内部(一階)
いよいよ天守に登ります。
真新しい柱が印象的で、木の香りがまだ残っているような気がしました。最上階から白石の市街地を眺めます。西面から二ノ丸の広場が見え、北側に回ると遠く蔵王連峰が晩秋の秋空に映えていました。

東北の城館めぐり(白石城) (12)天守最上階より二ノ丸公園を望む
北側の市街地は三ノ丸になっていて、家臣団武家屋敷が広がっていたようです。その一つで「小関邸」が当時の姿で保存されているというので訪ねることにしました。厩口門跡から真直ぐ北に進んで、矩折れになっている橋を渡ります。

道路に武家屋敷へのペイントが描かれているのが見えます。道路標識として利用されているようです。マンホールの蓋のような意匠になっています。その標識に沿って道を進むと幟が立っていて、武家屋敷はすぐ分かりました。
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冬の晴れ間から

冬の九頭竜川と奥越の山々 (2)冬の九頭竜川と少し雪をかぶった奥越の山々
冬になって、久々の晴れ間。
体がなまっていましたので、散歩に出かけました。

いつもの散歩コース。

九頭竜川の流れはとても穏やかで、太陽の光と溶け合って、あくまでも優しく光っていました。

冬の九頭竜川と奥越の山々 (1)川べりに立つ生コン会社の工場とペイント
まだ本格的な寒さは到来していませんが、予報は暖冬だと言っていたのに、やはり大雪になりそう…。その嵐の前の静けさ、とでもいうような近頃の天気。

川べりの枯草、遠くで聞こえる鳥の鳴き声。朝のほんのひと時の緩やかな時間。
…、…。

今年の大みそかはいつになく忙しくなりそうです。いくつかの仕事のノルマが重なっていて、何とか片付けないと年が越せそうにもない。平成最後の年だというのにこんなに気ぜわしい年になるとは…。冬の九頭竜川と奥越の山々 (3)奥越の山々と川べりの町
東北の城館めぐり(白石城) (4)大手一の御門(西から)
白石は会津若松から郡山を過ぎ、福島市を抜けると仙台に入る手前の小盆地の地形の中央に位置しています。地図を眺めると米沢や山形、天童、福島などのちょうど等間隔の位置にあることが分かります。

この地で奥羽越列藩同盟が交わされたのは蓋し当然で、仙台がすでに政府軍の奥羽鎮撫総督府の拠点となっていたため、旧幕府側の各藩は地の利の良い白石城に集結して、反政府の狼煙を上げたのでした。
中世、戦国時代には秀吉の奥羽仕置前後に上杉氏と伊達氏の間で、この城の争奪が行われ、最終的には関ケ原の戦い(慶長5年)で、伊達政宗がこの城を奪い返し仙台城の支城として以後の時代も機能し続けます。

東北の城館めぐり(白石城) (5)大手二の御門と桝形虎口
この時城主に片倉小十郎景綱が命ぜられ、以後、明治まで片倉家が守り続けるのですが、元和の一国一城令でも白石城は廃されず、片倉氏の居城として存続します。これは仙台城の支城としての位置づけで、例外的に存続が認められたというのですが、近年の研究では東北は一国一城令が発令されなかったのではないか、という見解が有力視されていると言います。こうした例は山形でも認められています。

話が大分それてしまいました。元に戻しましょう。
歴史探訪ミュージアムを過ぎて、本丸北の腰曲輪を進むと大手一の御門が見えてきます。ここから見上げる本丸天守、正確には大櫓の呼称があり、三重三階の構造です。高さなど規模の点では宇和島城や高知城とほぼ同じ規模だとの指摘があります。

東北の城館めぐり(白石城) (6)大手二の御門(東面)
大手一の御門をくぐると、奥に二の御門が見えてきます。大手一の御門と二の御門が細長いヘアピン状の折れ曲がり構造になっているのか不思議でしたが、もともとの大手門の位置に関係があるようで、本丸のすぐ北にある厩曲輪、厩口門が大手だったと言います。そのようにみると、北から真直ぐに入ってきて一の御門に到達します。東側からではグルグルと回り込む形で、違和感がありました。

東北の城館めぐり(白石城) (7)本丸天守(大櫓)(東から)
なぜ、大手口が変更されたのかは今後の研究に委ねられることになりますが、平成の大修理ではこの変更後の状況が復元されています。
大手二の御門は立派な櫓門形式で、こちらも発掘調査を経て立体復元されたものの一つです。

白石城下御絵図(天和3年)宮城県図書館蔵白石城絵図
この絵図は「苅田郡白石城下御絵図(天和3年)」(宮城県図書館蔵)で、『日本の城』「白石城」ディアゴスティーニ社刊行の掲載図より引用、一部改変して使用しました。
④白石城(白石城管理事務所発行)白石城管理事務所発行パンフレットから
阿津賀志山の防塁跡を見学し終えて、次の目的地の白石城へ向かいました。国見からは距離にして約20km弱。高速道路を使うまでもありません。一般道路の4号線を一路北に向かいます。

白石城は宮城県白石市益岡町に所在し、白石市役所の裏手の小高い丘の上に木造復元天守が建っているのが見えます。高速道路からも、一般国道4号線からも城を遠望することができます。

東北の城館めぐり(白石城) (1)市役所裏側からの登り口(東口門)
到着したのは午後2時を過ぎていたでしょうか、まさに昼下がりの城跡公園。ほとんど人影もないのでは、と思いきやチラホラと見学客の姿。
市役所北側の駐車場に車を停めて、大手一の門に至る東口門から登城開始。坂道の途中に東口門の説明版。この門は現在、当信寺の山門として移築されているそうで、見に行きたかったのですが、ここはオミット。

東北の城館めぐり(白石城) (2)東口門坂道にある説明板
緩やかな坂を上り切ると大手一の門。道のそばに白石城歴史探訪ミュージアムという資料館があり、白石城の歴史を紹介する施設となっています。
ここはあとで見学するとして先を急ぎます。大手一の門は天守の真北にあり、ヘアピンのように一旦折れて引き返すような形で二の門に向かいます。この門は本丸と同様、発掘調査が行われたようで、その成果に基づいて忠実に復元整備されていると言います。平成7年に復元工事が行われましたが、周知のように平成23年の東北大震災で被災し、建物の修復工事が行われています。これもすでに終了し、震災の跡はどこにも見当たらないほど復旧は進みました。

東北の城館めぐり(白石城) (3)本丸大櫓(三重櫓)(一の御門前から)
白石城は伊達政宗の家臣、片倉小十郎の守る城だったことはよく知られているようですが、城歩きマンが興味をもったのは、幕末に奥羽越列藩同盟がこの城で結ばれたという歴史性です。
東北の城館めぐり(阿津賀志山防塁) (9)下二重堀地区の説明板
阿津賀志山防塁跡の下二重堀地区に行きました。
阿武隈川にほど近い河岸段丘上で、並行して流れる滑川と滝川が合流して阿武隈川に注いでいます。その合流点付近で防塁が終わっているとのこと、全長約3kmにも達する長大な土塁。

こんな堀、土塁が平安時代の末頃に東北で作られていた、という事実。

東北の城館めぐり(阿津賀志山防塁) (10)防塁跡の遺存状況(手前東側から)
思えば律令期には九州や瀬戸内海を挟む中国、四国の山間に朝鮮式山城(神籠石とも)が築かれたことを思えば、東北にも蝦夷に対する防御施設が築かれ、それらは多賀城や、秋田城、徳丹城、胆沢城やその他の柵が今も残っているのを見るにつけ、藤原氏が頼朝の軍勢に対して築いた防塁も歴史的必然として容易に受け止められるものです。

東北の城館めぐり(阿津賀志山防塁) (11)西側に歩いて行った場所の防塁跡(左は段丘涯)
こんな戦術、土木技術がどこから、どうやってもたらされたか、を追い求めようとする必要はないのです。歴史の流れの中で当然考え付き得ることができる代物だからです。
岩手県平泉の柳之御所跡からも二重の規模の大きな掘り、土塁が検出されていますし、最近では秋田県横手市の大鳥井山遺跡でも長大な二重堀の遺構が見つかっています。いずれも防御施設として築かれたもので、佐賀県吉野ケ里遺跡の巨大な環濠集落以来の系譜に連なる土木技術。

東北の城館めぐり(阿津賀志山防塁) (12)奥まで歩いて振り返った状況
下二重堀地区は長さ約200mほどもあったでしょうか、滑川の左岸段丘に並行しており、二重、三重の堀、土塁が所々で途切れながらもうねうねと蛇行しながら延びているのを視認することができました。

福島県国見町阿津賀志山防塁跡周辺地形図国土地理院電子地図を引用、一部改変
およそ800年もの間に様々な地形的改変を受けてもなお、今日までその姿のあらましを地上に遺存し続けていることに大感動です。日本の三大防塁の一つとも言い、大宰府の水城、北九州の元寇防塁とともに並び称される遺跡。
こう言うと、なんだかとてつもないもののように見えますが、前述したように古代山城、朝鮮式山城の土木技術の流れの中で位置づければ、特に際だったものでもないと思えます。

福島県国見町阿津賀志山防塁跡位置図国見町発行のパンフより引用(一部改変)
しかし城歩きマンがこの防塁を見て、気になっているのはこうした平野にしろ、山間にしろ長大な土塁を築く防御の意識が戦国時代になると、プッツンと途切れてしまうのは何故か、ということです。これを長いこと考え続けています。

東北の城館めぐり(阿津賀志山防塁) (13)西側の小高い山が阿津賀志山(矢印)
それはさておき、江戸時代にはあの松尾芭蕉やその他の紀行文に、阿津賀志山防塁については伊達の大木戸、という呼称で何度も登場するそうです。伊達領に入る手前に大きな、とてつもなく長い土壁、堀が行く手を遮っている様を見て、さぞや驚き、昔の武人が築いた戦いの凄さに感じ入っていたのではないかと想像されます。

余談ですが、下二重堀地区の段丘涯の反対側、元木集落の北端部に平泉の中尊寺から移植した蓮花を栽培して公園づくりを進めている一角があります。平泉藤原氏を意識づけるものですが、史跡公園の一つの整備手法としては、とても歓迎すべきもので好感が持てます。