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若狭の山城踏査行5(高浜城2)

高浜城跡の踏査 (2)登城路の途中から明鏡洞の方角を望む
宿泊施設の城山荘の横に登城道があり、ここから登城開始。
道は緩やかな坂道で、大きくカーブしながら続いています。一つ目のカーブを過ぎた辺りで左手の崖面を見ると、なにやら割石のようなものが崖に並んでいます。石垣でしょうか。

高浜城位置図(国土地理院電子地図より)国土地理院電子地図を引用(一部改変)
真横に続いて、草に埋もれてしまいました。2、3段分ほどが痕跡のように残っていました。割石は小振りで人頭大ほどの大きさです。『福井県の中・近世城館跡』に縄張図があるにはあるのですが、現地の案内板にも書かれている通り、城の遺構は殆ど残っていず、全貌は分からないとのこと。当然、この石垣もどの部分のどんな石垣か、判然としません。

高浜城跡の踏査 (1)左側の崖面に石垣が…
カーブを曲がり切って更に次のカーブを進むと、工事中通行止め、のロープが…。しかし、今日は天候も悪いのか、工事は行われていず、関係者もいません。ここで引き返すわけにも行かず、歩ける場所を選んでロープを潜って前に進みました。

高浜城跡の踏査 (3)櫓台下の展望所(ここも曲輪の跡か…)
すると本丸(主郭)へ通じる橋が架けられている切通しにたどり着きました。どうやらこの橋も架け替え工事をしていたようです。真新しい、ヒノキの黄白色の橋が雨に濡れてとても新鮮でした。橋を渡って、櫓台のところへ向かいます。ここでも石垣が確認できます。さらにこの櫓台の西側崖面にも石垣が犬走風に二段にわたって並んでいます。
ここの石垣は他の場所と違ってやや大振りで、野面積みで積んでいるのがはっきりとわかる状態になっています。

高浜城跡の踏査 (4)本丸にある浜見神社の祠(南から)
明鏡洞のある東側の岩山にも登ってみました。高さも同じぐらいの高台になっていて、やはりジグザグの遊歩道が続いています。海風がものすごく吹いていましたが、我慢してひと通り歩いてみました。夏の海水浴シーズンなら、とても気持ちの良い展望所だろうなと十分想像がつきます。昔の地割図によるとこの山は三ノ丸があったところとされています。

高浜城跡本丸櫓台?本丸の最高所にある櫓台(南から)
本丸との間の芝生公園のところが二ノ丸、城山荘から南の市街地が三ノ丸というふうに縄張が形成されていたと言います。大森さんの言い方を借りると、小浜城と同じほどの規模であった、ということになります。現状からはとても想像できませんが、小浜城を中心に東の国吉城、西の高浜城は若狭の三大名城といってもおかしくないほど、歴史的な意味合いの高い城跡と言えるでしょう。

高浜城跡本丸の石垣本丸櫓台下の西面の石垣(犬走状の狭い段があり、その下にも石垣が…)
時代的にも中世の山城の構造をはっきりと遺している国吉城、中世から戦国時代の過渡期の様相と、海城という特殊な縄張の性格をもつ高浜城、そして近世の城郭として、また海城としての完成を果たした小浜城と、連続的にティピカルに若狭の城の歴史を具現しているこれらの城は大変稀有な存在と言えるでしょう。

小浜に酒井氏が入部した寛永11年には廃城になったと言われ、以後、昭和24年まで酒井家の所有地だったものが町に譲渡されました。そして城山公園として整備されたと言います。城跡がほとんど残っていないとは言いますが、きちんと遺構確認調査を実施して、しかるべき保護対策をとってほしいと切に思うのは城歩きマン一人でしょうか…。
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若狭の山城踏査行4(高浜城跡1)

高浜城跡遠景高浜城跡遠景(南東の砂浜から望む)
初日、難波江城跡を踏査した後、民宿のチェックインにはまだ時間がありましたので、近くにある高浜城跡も、この際歩いてしまおうと思い立ち城跡へ向かいました。持参した昼食のおにぎりを車中でパクつきながら海を眺めていましたら、雨風がだんだん強くなって、ものすごい海風が横なぐりに吹いてきます。とても傘をさして踏査できる状態ではありません。

防寒具をしっかり着込んで、フードを頭に被せて、さらにビニール合羽を羽織って歩くことになりそうです。城山公園広場の駐車場で登城する準備をしていると、突如、大阪ナンバーの年配夫婦の車が入ってきました。

高浜の八穴・明鏡洞芝生のある公園(南東部)から望む
城歩きマンが車から出て、そのご夫婦に話しかけると、「つれあいが明鏡洞をどうしても見ておきたいというもんで…」とのこと。あいにくの天候でどうにもなりませんわ、と言いながら車の外からしばらく眺めた後、二人はすぐに駐車場を出ていきました。

高浜城跡は戦国時代、永禄年間頃から江戸時代寛永11年(1634)まで存続した平地式の城跡です。小浜城と同じく海に突き出た配置は海城と言ってもいいでしょう。
海城とはまさに海岸の地形を生かして築城された城で、海上交通を支配するための構造と役割をもっていると言われます。荷物の運搬を担った船が出入りする「舟入」が縄張の一部として組み込まれているのも性格の一部を表しています。四国の高松城などは典型的な海城とされています。

高浜の八穴説明版明鏡洞手前の説明版
さて高浜城は、最初永禄年間に逸見氏が築いたと言われ、城主の昌経が天正9年(1581)に病没し、そのあと小浜城主となった丹羽長秀の家臣、溝口秀勝が治めるころとなり、秀勝は5000石の城主として高浜城に入部します。その後も城主は交替が続き、最後佐々義勝の時、罪を得て追放され、城は廃棄になったと言います。

城の詳しい縄張などはわかりませんが、城跡の一部に石垣のあとが残っていることから溝口秀勝が入部して以後に城の改修が行われ、石垣が施されたものと考えられます。現在、城跡公園として遊歩道の整備工事が行われ、展望所まで登りやすい公園になっていくと思われますが、城の構造などが不明のままになっているのはもったいない気がします。

高浜城位置図国土地理院電子地図を引用、一部改変
小振りの割石を用いた石垣が部分的にも残っているのですから、城跡全体の測量と遺構の現状について確認調査を行い、今後の整備計画をきちんと立ててほしいと願うばかりです。小浜城主の武田氏を支えた武将たち、とくにその重臣の一人であった逸見氏の実態を知るうえで佐伎治神社の砕導山(さいちやま)城跡と高浜城跡は欠かせない歴史遺産です。

余談ですが、高浜城のある城山公園には明鏡洞という名勝奇岩があることでも知られています。高浜の八穴(やな)と呼ばれている、海蝕によって形成された自然景観のひとつで、丹後の天橋立ほどではありませんが見るものを感動させる迫力があります。かつて室町幕府3代将軍足利義満や4代将軍義持も丹後の古刹参詣の折に、ここに立ち寄ったと言われています。

若狭の山城踏査行3(難波江城跡3)

難波江城跡の踏査 (5)城跡西北端にある4重堀切(最初に確認した1本目の堀切)
難波江城跡については3日目の朝も、再確認の意味で再踏査しました。
初日が雨で十分に遺構確認ができなかったことが大きな理由です。

難波江城跡の踏査 (6)石仏や宝篋印塔片が残っている堀切
今度は直接旧道から二重堀切のところまで行き、山頂部を目指すコースで歩きました(経路2)。このとき、この二重堀切から旧道をはさんで、更に南東方向に海側に突き出た高まり部分も踏査したところ、堀切をもつ出城のような性格の山城遺構と分かりました。

難波江城跡の踏査 (9)切り通しに近い4本目の堀切
難波江城跡は従前の城域から広がって、かなり広範囲に遺構が残っている可能性が出てきました。分布範囲の再調査を含めて、城跡の再確認を実施すれば、もう少し、この地域の戦国時代の歴史的様相が追認できるかもしれません。

難波江城跡の踏査 (10)山道の切り通しに面して残っている墓石台座(?)
また大森さんの著書には載っていませんが、城跡北西側、小黒飯集落に寄ったところの四重堀切のある北西側斜面下には、明治以前と思われる、かなり古い時期の山道(緑色破線)が通っていたようで、この山道と平行に四重堀切が穿たれていました。しかも一番手前の堀切の脇には石仏(阿弥陀如来像?)が一体と、宝篋印塔の墓石片が積み重ねて置かれていました。(星印)

難波江城跡の踏査 (7)
石仏が見つかった堀切と石仏
難波江城跡の踏査 (8)宝篋印塔が見つかった地点(石仏とわずか3mほどの距離)
さらに興味深かったのは、四重目の堀切、すなわち山道側に一番近い平坦部にも墓石の台座かと思われる方形の石組みや燻べ焼きの黒瓦片が散乱している場所があり、山道の通行の安全を祈願する(?)石碑か祠が建てられていたものと思われました。今後さらに地元への聞き込みなど、追跡調査が必要です。おそらく地元の人には周知されているとは思われますが、難波江城が単なる山城ではない、何かを語ってくれる生き証人のように思えて、その場を去りがたい衝動にかられました…。
難波江城跡の踏査 (1)3日目に新たに確認できた最東南端の小高台の堀切

若狭の山城踏査行2(難波江城跡その2)

難波江城跡位置図難波江城跡踏査ルート図(国土地理院電子地図を引用、一部改変)
高浜原電が出来るまで使われていたという旧道は、海抜30~40mあたりのところを山の地形に沿って曲折し、小黒飯集落の奥の寿圭寺(庵)までつながっていました。
城跡への登り口を探して、この旧道を進みましたが、適当な登り口が見つからず、寿圭寺の裏手、山裾に並ぶ墓地のところまで来てしまいました。この墓地がかなり山の奥まで続いているように見受けられましたので、この道を伝って尾根に出ようと考え、山に入りました。(経路1)

難波江城跡の踏査 (2)二重堀切(下位の堀切、北から)
しかし、これは早計で、城跡の遺構の中心部からは大きく西に外れた隣の尾根道を歩くことになってしまいました。行けども行けども平坦面がいくつかあるのですが、明確な堀切や土塁は確認できません。ついに、県道高浜・舞鶴線(県道21号線)が蛇行して走る中腹に出てしまいました。寿圭寺からは450mほど南西に向かって歩いたことになります。この高浜・舞鶴線に出る手前のところで堀切が一条確認できましたので、朧ろ気にも城の範囲がこの辺りまでは来ているな、と予感させるものがありました。

難波江城跡の踏査 (3)上位の堀切(西側から)
一旦、麓に下りて、もう一度旧道の寿圭寺のところまで戻り、城の中心部への道を見つけなければなりません。谷道を北に向かって歩くと小黒飯集落が見えてきました。ここからさらに北へ回り込んで、海岸部へ出ました。
旧道の海岸線南側のところまで戻って山を見上げると、なんと谷の右手に横方向に溝のようなものが見えます。奥に入って確かめましたら、これが大森さんの縄張図に言う難波江城跡南東側二重堀切だと分かりました。(経路2)

難波江城跡の踏査 (4)二重堀切上位から旧道を見下ろす
二重堀切は両方ともはっきりと残っており、大きく左右に刻まれていて、それとわかる遺構でした。上位にある堀切は土橋が数本確認でき、いわゆる障子堀になっている可能性があります。
ここから上へ進み、大森さんの言う谷部の竪堀(畝状に表記されている)を見るのですが、それらしき箇所では少し堀の落ち込みが弱く、竪堀とは確認できませんでした。
難波江城跡の踏査 (11)山頂部の曲輪(南から海側を望む)
山頂部(標高81m)まで登ると、平坦部が何段かに分かれているのを確認することができました。土塁が回るような形跡は確認できませんでしたが、平坦部はきれいに均されていて、斜面側も丁寧な成形がなされているようでした。

山頂部はほとんど人の手が入っていないらしく、廻りの樹木が鬱蒼と生い茂り、海側の展望は望めませんでした。ただ、そのお陰か(?)、冷たい海風が樹々に遮られて少しは寒さも和らぎ、何とか山頂部の踏査も終了できました。

若狭の山城踏査行1(難波江城跡その1)

難波江城跡遠景1高浜海岸から青葉山と難波江城跡を望む
平成31年2月8日(金)冬本番の寒い日が続いていますが、若狭の山城を踏査することになり、午前8時30分マイカーで高浜町へ向かいました。
以前にもブログで書いたと思いますが、冬枯れの季節が我々城歩きマンたちの本番なので少々の寒さや雨風は避けられません。葉っぱが落ちて、木々の間がすっきりと見通せるこの時期が絶好の城歩きシーズンなのです。

踏査する山城は高浜町にある難波江(なばえ)城跡を皮切りにして、高浜城跡、白石山城跡、小浜市の海坂山(かいさかやま)城跡、稲葉山城跡の5ヵ所です。日程は余裕をもって2泊3日としました。なお、この踏査行には名古屋市在住のMさんに同道をお願いし、ほぼ全日程を二人で踏査しました。
Mさんは名古屋市でブログ「愛知の史跡めぐり」を開いている城好き人間です。今回同行していただき、いろいろな遺構確認にその力量を発揮していただき、大いに助けられましたので付記しておきます。

宿は高浜町薗部にある民宿で、夏は海水浴客でとてもにぎわう町ですが、さすがに冬のこの季節は閑散として人っ子一人歩いていません。


最初の日は冒頭にも紹介しましたが、高浜町の最西端に近い難波江城跡です。
難波江城跡は大阪の難波と同じ地名に江を付けて難波江。とても珍しい地名です。読みはなばえですが、こうした地名は覚えやすいので楽しいです。最初の日と3日目のあさイチでも再確認のつもりで歩きました。

高浜の海岸から西へ向かい、三松を抜けて難波江集落入り口の三叉路を白浜トンネルのほうへ進むと手前に見える小高い丘陵が城跡です。標高は81.0mです。左の県道は青葉山の北側山麓を内浦から日引に向かう県道21号線になります。また右側のトンネルから先の道は高浜原電に向かう県道149号線になります。

難波江城跡遠景2難波江城跡(東南側から)
難波江城は室町幕府の奉公衆であった大草公広によって築かれたと言われています。大草氏は愛知県三河地方を発祥の地とする豪族で、しきたりや伝統に伴う儀式を執り行う技能を持った集団を先祖に持っています。後になって室町幕府に重用され、深く幕政に関与していたものと思われます。熊川の沼田氏、大飯の本郷氏らと同様、南北朝期以後に若狭に派遣された幕府奉公衆の一人です。

築城された時代は天文・永禄年間頃で、青郷の代官であった大草氏が内浦地区一帯を支配するために、東の高浜海岸から小浜の方向を睨み、また北西の方角には内浦湾一帯を掌握するため、この地を占拠したものと考えられます。

日引に向かう旧道(廃道)手前の道の脇に駐車して、いよいよ登城開始。
この日は家を出た時は天気も良く、晴れ間も見えていましたが、南下するに従い空は曇ってきて、現地に着くころには雨風が強くなって、みぞれ混じりです。高浜の海岸も北西風が強く吹いて遠景写真を撮ろうとしましたが、風でカメラが動き、うまく行きませんでした。
そんなこんなでビニールの合羽を着こんで登城です。