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越前市矢谷山城跡越前市国兼町矢谷山城の堀切
令和5年は慌ただしい一年でした。毎年慌ただしい一年でした、と書いているような気がしますが、今年は特にバタバタと過ぎていったような気がします。それでいて、長い一年だったとも思える一年でした。
7月に新しく「ふくい山城の会」を立ち上げて、山城歩きが大好きな人たちの自由で気軽な集まりを目指して一歩を踏み出したのですが、なかなかどうしてこの半年は右往左往の行動が目立ち、思うような会の運営には至りませんでした。反省・・・。
気長にやっていける会を目指すべきだと思うのですが、さて、その運営はどうするか・・・?会員一人一人の持ち味を活かして積極的に運営に参加できる企画の立案。言葉にするのは簡単ですが、実行するには一筋縄ではいかないハードルがあるようです。

乙坂山城跡踏査乙坂大洗磯前神社
さて、来年の会の見学予定は・・・。
県内の、歩いて見学可能な山城は今年の見学先以外にどんな城があるか・・・。国県や市町の指定史跡になっている山城はほぼ歩き尽くしたか、と思います。雨で見学自体が中止になったのもありますが、概ね廻りました。
まだ歩いていない山城は福井市の東郷槇山城、南越前町の杣山城、燧ヶ城、今立の大滝城、敦賀の金ケ崎城、雨で中止になった玄蕃尾城、小浜の後瀬山城。福井市の鷹巣山城も雨でお流れになった山城です。これらの山城を中心に来年の見学スケジュールを4、5回の内容で組んで見ようと思います。指定史跡以外の城にも歩いて登れる箇所があります。旧清水町の乙坂山城(芝築地山城)や越前町と宮崎村との境界にある厨城も魅力的です。越前市の矢谷山城(大塩八幡城)、武衛山城などもいいかなと思います。

厨城愛宕神社拝殿厨城跡愛宕神社拝殿
旧清水町の乙坂山城は戦時中防空監視所に使われた場所で、山頂部は監視所の建物跡とみられる大きな穴が空いていて、見苦しい箇所もありますがまだ山城の遺構もたくさん遺っています。厨城は現地の管理が行き届かず、ブッシュに覆われていて、細部の見学はほぼ不可能です。尾根道や山頂部にある愛宕神社までの遊歩道は歩ける状態ですので、工夫をすれば見学可能な山城です。
大滝神社拝殿大滝神社拝殿(西から)
越前市国兼町にある大塩八幡宮と、その裏山の源平合戦の伝説に満ちた山歩きは大変魅力的です。山頂までの道のりも小学生の遠足コースになっているほどで、楽に登れる山城だと思います。武衛山城も同様に味真野地区の小学生の遠足コースになっていて、自然散策にはもってこいの山城です。旧今立町の大滝城も手軽に行ける山城で、山頂には大滝神社の別宮、川上御前を祀るお堂が安置されています。
武衛山城遠望武衛山城遠望
会員の自発的な提案やボランテイア精神を活かしながら、会の円滑な運営や見学会に期待をしながら、来年の会活動を模索してみたいと思います。
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疋壇城、玄蕃尾城の下見踏査報告

愛発歴史の宝庫しおり(表紙)愛発地区の遺跡マップ(表紙)
令和5年11月6日(月)午前10時から、ふくい山城の会の現地見学会の下見を実施しましたので、報告します。
福井を朝7時過ぎに出発。高速を使わず、国道8号線から今庄で365号線にのって山越えで敦賀に向かいました。8号線は朝のラッシュの時間帯でしたので、かなり混み合っていましたが、武生を過ぎたあたりから順調に流れて、道路はスムーズに通過できました。新疋田駅に到着したのは9時半頃でした。概ね2時間半ほどの時間でした。天候は終日曇り。
愛発周辺遺跡地図疋壇城周辺のマップ(拡大図)
今回は名古屋の南正純さんに下見の同行をお願いしました。
JR新疋田駅は駐車場がかなり広くて、2~30台は余裕を持って停められますが、月曜日は出勤客の車で概ね6~7割程度が埋まっていました。土日は休日なのでスペースは確保できそうです。
愛発周辺遺跡地図2玄蕃尾城周辺のマップ(拡大図)
この疋田には古代~中世・戦国時代を通じて歴史に登場する疋壇城があり、歩いても5,6分の距離です。せっかくですのでこの城跡も見学したいと思い、コースに加えました。県指定の史跡にもなっています。新疋田駅に集合し、ここで皆さん乗り合わせて4,5台で移動することにしましょう。
KIMG0429登城口駐車場(上から)玄蕃尾城登城口の駐車場(上から)
疋壇城まで1,2分。近くに車を停められるスペースもあります。ここで疋壇城を見学してそのまま疋田の集落に下りて、中心部にある「愛発舟川の里」を見学します。敦賀と疋田を結ぶ運河が造られ、物資の輸送に使われました。折角ですので、ここもついでに簡単に見学しましょう。
KIMG0416主曲輪櫓台、東辺土塁(西より)玄蕃尾城主曲輪の櫓台と土塁、東虎口
その後玄蕃尾城に向かいます。登城口は至って狭く、車も5,6台ほどしか停められません。先客がいるとなおのことです。ここは全員集合は無理で、4,5台で乗り合わせて行くに限ります。疋田からここまで概ね20分ほど。ここで下りて登城します。
もうこの登城口からは10分ほどで山城に着けます。今年は9,10月が暑かったので紅葉がはっきり色づかずに、まばらです。それでも見学当日頃には見頃になっているでしょう。一旦、主曲輪まで進んで、ここで昼食です。周囲は広々としていて休憩にはもってこいですが、樹木が成長していて見通しは利きません。ようやく木々の間から木之本方面がのぞける程度です。
KIMG0418主曲輪櫓台(西より)玄蕃尾城主曲輪の櫓台
手早く昼食を済ませた後、周辺の曲輪や空堀、土塁などをじっくり探索して下城します。この玄蕃尾城は地元の刀根地区の方々の遺跡管理の手が行き届いていて、周りには雑草がほとんどありません。今は落葉シーズンで遺構の見通しが利いて抜群です。きっと皆さんに感動してもらえると思います。
1時30分頃には玄蕃尾城駐車場を出て、新疋田駅へ戻りたいと思います。
IMG_20231101_0003.jpg「コシヒカリの古里から奈良西大寺へ」p20より引用
角川書店発行の『日本地名大辞典 18福井県』の「赤江」の項には、赤江郷と赤江荘が奈良期の郷名、荘名として記載があり、天平神護2年(766)10月21日の「越前国司解」に坂井郡子見村西北6条4大口里、5神田里に口分田をもつ農民として「赤江郷戸主」の阿刀大麻呂以下6名の戸主の名があります。また赤江荘は坂井郡のうち、西大寺領荘園として宝亀11年(780)12月25日の西大寺「資賤(財)流記帳(しざいるきちょう)田薗山野図」に同荘園名が記載されています。さらには鎌倉時代に入って建久2年(1191)5月19日の西大寺所領荘園注文のなかに「顛倒荘々(てんとうしょうしょう)」のひとつとして「越前国坂井郡赤江荘」の名が見えるが、実体は失われていたと言います。
しかし、今回の木簡の発見で「西大寺資賤(財)流記帳」に記載されていた「赤江荘」の存在が確実になり、この発見を受けて、奈良女子大学教授舘野和己さんが丸岡町高柳から吉政あたりに存在した小字名の「赤江橋」、「赤井橋」や、福井市栗森、上野本町の北にある「赤江田」の古地名から推測して、かつては高柳、吉政から上野本町周辺にかけての広大な範囲が赤江荘と呼ばれる荘園の範囲ではなかったか、という内容の論文を発表しました。
西大寺の「資賤流記帳」のことは従来から知られており、赤江郷は条里の位置から今の坪江辺りに推定されていたのですが、その認識を大きく修正しもっと広い範囲が赤江荘だったのではないかというのです。その南限が栗森、上野本町になります。今後森田周辺の古代史は大きく書き換えられることになるでしょう。
今まで鯖田国富庄のことは知られており、この辺り一帯は東大寺の荘園が取り巻いていたと考えられていました。ところが称德天皇と僧道鏡の台頭により、神護景雲年間(767~)以降、奈良における寺社の勢力は東大寺から西大寺に次第に移っていったと言われます。そして平安時代の「和名類従抄」中には赤江荘の名も見えなくなるので、この荘園名は奈良時代の呼称であったことになります。その後越前斉藤氏による開発領主の台頭により、坂井郡一帯は中世荘園の時代に移っていきます。赤江荘について論文を発表された舘野さんは、文章のおわりにこう述べています。
「奈良時代に置かれた荘園としては、文章や絵画資料から東大寺荘園がよく知られているが、それだけにとどまらず、本稿で扱ったように西大寺領の荘園も多く置かれたのである。木簡によって復元された赤江南庄、赤江北庄は越前の古代史に新たな1頁を開くものであろう」と。
コシヒカリの古里から奈良西大寺へ(表紙)「コシヒカリの里から西大寺へ」表紙
昨年の5月22日(日)森田地区上野本町、東森田、栗森地区周辺の史跡や伝承地を見学しました。それは森田公民館主催の「福井学講座 森田の魅力発見隊」という企画で標記の遺跡周辺を散策したときの話です。
たかむく玉手箱(別冊)「たかむく玉手箱」表紙
城歩きマンが住んでいる辺りには南北朝時代の石丸城、古代以来の石盛遺跡や河合寄安遺跡などがあり、条里制が敷かれて東大寺領荘園「鯖田国富荘」に関連する水田跡、集落跡なども過去に発見されていました。そしてごく最近の話題ですが、森田北東部の上野本町、栗森から丸岡東南部にかけて古代荘園の「赤江荘」の存在が大きくクローズアップされました。この荘園は「鯖田国富庄」とは別の荘園で、しかも東大寺領荘園とは別の荘園だということです。
「ふくい山城の会」会員の方から資料提供を受けて、丸岡町高椋地区のまちづくり協議会発行の冊子をいただき、その中に上記の赤江荘のことが紹介されていました。その範囲の多くが旧丸岡町一帯にかかるため、地元高椋地区の歴史愛好家の人たちが熱心に宣伝、顕彰活動をされているとのことです。この資料をいただくまで気が付かずにいて、大変不勉強を恥じた次第です。
赤江荘は東大寺と並ぶ奈良西大寺の荘園で、この地一帯にかけて広く存在し赤江荘と言われ、かつてはもっと北の方角、丸岡北部の坪江、長畝辺りに比定されていましたものです。しかし最近になって、平成18年奈良国立文化財研究所が平城京の発掘で発見した「赤江荘の木簡」によって、その存在がようやく詳細になりつつあるということでした。
コシヒカリの古里(写真ページ)「コシヒカリの古里から西大寺へ」より引用
平成5年に刊行された『福井県史 通史編1』原始・古代編では、東大寺の越前における荘園の郷名のひとつ「赤江郷」が絵図で示され、その位置は今の坂井市丸岡町坪江の辺りに比定されています。そしてこの赤江郷は平安時代以降、統合、整理されて名前が消滅した、とされていました。<この稿続く>
若狭歴民チラシ若狭歴民パンフレット表紙
令和5年10月21日(土)ふくい山城の会が計画していた小浜市後瀬山城跡の見学は雨のために中止。雨の日のコースとして博物館めぐりを予備コースとして設定していましたので、そちらに切り替えて標記の三つの博物館めぐりをしました。
若狭歴史民俗博物館見学令和5年10月21日 (2)若狭歴民展示室前でガイダンス
午前10時に後瀬山城の麓まで行ったのですが、とうとう雨は降り止まず、山城を目の前にしながら登城を断念。引き返して東小浜にある若狭歴民博物館へ。マイクロバスをチャーターしての現地入りでしたので、雨の日のコースに切り替えたことになり順延はせず、来年以降の予定に引き延ばす格好になりました。残念。
若狭歴史民俗博物館見学令和5年10月21日 (15)若狭歴民の展示説明の一コマ
一旦若狭歴民の特別展はオミットして、常設展だけを見ることにしました。ここで若狭全体の歴史の概略ですが、把握できる展示内容になっています。じっくり見学すれば2,3時間は優にかかる内容ですが要点を拾いながら古代から近代までを見て回りました。縄文時代や中世、また仏像のコーナーで立ち止まって、説明を挟みながら見学しましたが、会員の方々も興味津々で観覧していました。
年縞博物館見学令和5年10月21日 (2)年縞博物館入り口
その後若狭「道の駅」で昼食をとり、午後のコースへ。道の駅を出る頃には雨もあがって、これはいけるかな・・・、と半分期待が持てたのですが、すぐにまた雨が降り出し、後瀬山城見学への活路はまったく見出せませんでした。
年縞博物館見学令和5年10月21日 (4)年縞博物館提示風景
縄文博物館のすぐ隣に出来た年縞博物館は7万年分の地層を取り出せた、世界でも唯一の自然史系博物館。地質学と地層学を足したような新しい分野の博物館と言えるものです。また古生物学的な要素も多分に含まれ、花粉分析、DNA鑑定などを駆使して年代を割り出す学問分野です。生物やものの形態変遷を年代的に追うことを型式編年と言いますが、これは大ざっぱに百年単位、千年単位、場合によっては万年単位のものもあります。しかし、この年縞による時代、年代区分は一年単位の変化を把握できることを意味しています。
縄文博物館見学令和5年10月21日 (6)縄文博物館入り口
それにしても科学の進歩はここまで来たか・・・、と思わせる博物館です。
縄文博チラシ縄文博パンフレット表紙
縄文博物館はつとに知られた鳥浜貝塚の発掘調査を契機に、出土遺物を中心に展示する、言い換えれば鳥浜貝塚資料館とも言える博物館です。鳥浜、の名が表記されていませんが城歩きマンは「鳥浜」の名を冠した博物館、である方がずっとインパクトがあると思います。平成12年(2000)に建設されてから早や23年になります。年縞博物館建設以来、久しぶりに訪れてみて感無量の面持ちでした。