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岩略寺城見学会
城歩きマンがお付き合いをしている愛知県の「愛教労城の会」から山城見学会のお知らせが届きましたので、ご紹介します。

日時は令和3年2月28日(日)午後1時から3時30分頃までです。
場所はチラシにも掲載されていますが、豊川市長沢町御城山で現地へのアクセスは、自家用車、電車の両方が可能です。
自家用車は東名高速道路岡崎インターで下りて、国道1号線に出、東に向かって走り、長沢交差点で右折し、道路標識に従って進むと御城山の駐車場に着きます。山城はここから出発です。
電車の場合は、名鉄名古屋本線に乗車、長沢駅下車。徒歩で約20分です。主催者側で長沢駅から現地まで便乗で送迎して下さるとか・・・。事前にお知らせ下さいとのこと。

さて、岩略寺城のご紹介ですが、豊川市長沢にあり、ちょうど東三河と西三河の境界あたりになるそうです。その意味では交通の要にあたり、古来、西の松平氏と東の今川氏とのせめぎ合いの場所だったと言います。

山城は御城山(標高174m)と呼ばれる丘陵の頂上に展開しています。東西約200mの範囲に本丸曲輪、二の曲輪、東曲輪、南曲輪、腰曲輪、段曲輪、三日月堀、武者隠し、井戸などが良好なかたちで残されています。本格的な中世山城のつくりになっています。三日月堀が丸馬出か、と言う指摘もあるそうですが、どちらかというと連郭式山城のタイプで古相を示しています。
大手は東に延びる尾根筋だと言われていますが、こちらも北からと言う指摘もあって、いろいろ議論のある山城です。見応え十分の山城でとても興味が沸きます。当日がとても楽しみです。

一緒に見学したいと思われた方は直接主催者にご連絡されてもかまいませんが、城歩きマンからでも中継iいたします。どうぞ遠慮なく申し込み下さい。
但しコロナのこともありますので、ご注意下さい。万が一中止になることもあります。
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編集_舟橋舟橋遠景(2014年撮影、南から森田側を望む)
城歩きマンがとても勉強になったものには、能登にある総持寺の開山和尚、瑩山紹瑾は越前多祢郡の人なり、と言う一節があります。瑩山は曹洞宗第四代の和尚で能登総持寺の開山であったこと。そして出身地が越前の山崎三ヶ、合併した三村のうちの、多祢(古名)だったという。角川の地名辞典にもちゃんと記載がありました。知らぬは城歩きマンばかり・・・。

さらに鳴鹿には明治の9年以降舟橋が架かっていたが、この橋はもともと森田の舟橋だったものをちゃんとした木橋が森田に架けられたので、その鉄鎖や舟などを鳴鹿にもってきたという話。

また慶応4年(1868)に井向で発見された2個の銅鐸について、直接発見した本人、岡部氏から発見の様子を聞き、メモしていたというエピソード。
2個のうち、大きい方(1号銅鐸)は本人が所蔵し、小さい方(2号銅鐸)は当時、井向を知行していた西尾藩の藩主、松平和泉守に献上されたことが記されています。
1号銅鐸は流水文様の間に人物や舟や動物など、原始絵画が描かれていて、現在国の重要文化財に指定され、兵庫県辰馬考古資料館に所蔵されていますし、小さい2号銅鐸は名古屋市在住の個人が所蔵しているとか・・・。こちらにも袈裟襷文の間に人物、動物、あるいは高床倉庫などの絵が描かれています。いずれも弥生時代の生活の様子や環境を推し量る上で大変貴重な資料となっています。

春江町井向出土の銅鐸井向1号銅鐸、辰馬考古資料館所蔵(「図説 福井県史」より引用)
こんな話が、つい今し方、ご近所で噂話を聞いたとでも言うようにポンポンと飛び出してくるところに驚きを感じます。
明治の初め、福井では北陸人類学会が結成され、多くの篤学の徒が入会して原始から古代にかけての文物の紹介や遺跡の踏査を続けておられたとか。そのメンバーには月輪真成さんや高橋健自さんがおられます。いわゆる第1次考古ブームの到来を告げるものでしたが、これらの方々に混じって我が薫界和尚も、ともに遺跡や遺物の調査、研究に打ち込んでいたのだろうと容易に想像されます。

最後になりますが、考古学的な発見であろうと思われるのに、その後の福井の研究史上には現れてこない一件がありますので付記しておきます。
それは現坂井市丸岡町小黒の集落で、明治22年に民家の壁土を捏ねているときに土中に穴が開き、落下する事故が起きましたが、中を調べてみても何もなく、茶碗が一個落ちていただけだと言います。
その茶碗がどんなものかは述べられていませんが、薫界和尚も実際に中に入って状況を確認し昔の住居跡だろうと指摘しています。類似の例が丸岡の瓜生、金津、あわら市波松などに見られると書き添えています。いわゆる「横穴」でしょうか。典型例は近場に例をとれば、加賀市勅使町にある法皇山横穴群がありますね。

横穴の調査は県内では絶えて久しく、ほとんど研究は進んでいません。この草稿集がきっかけとなって、横穴だけに止まらず、他の事例にもスポットが当てられて、歴史研究のきっかけになっていけば、浅田さんや薫界和尚の思いが必ず通じるものと確信しています。
井蛙草稿集2(轟木浄光寺) - コピー
新年早々、お手次のお寺さんから冊子をいただきました。『井蛙集草稿』と題する本です。

何でも、お寺さんの数代前のご住職、高木薫界さんが歴史に造詣が深く、お寺のことは勿論、幕末から明治にかかる激動の時代に越前の歴史やら、坂井郡一帯の動向を聞き書きしながらまとめられた草稿を、檀家で篤志家の浅田益作さんが古文書の読み方を勉強されて、読みやすい書き下し文に改め、また活字にして自費出版されたとのことです。

その意図するところは、前にもあとにも、この時期の貴重な歴史を書きとどめてくれた薫界和尚の功労を、檀家の皆さんに知っておいてほしいという気持ちからだったと言います。現在のご住職が、この浅田さんの奇特なご意志をくみ取って、出版を許可してくれたことから現実のものになりました。

城歩きマンは、この本を実際に手に取って読んでみて、初めてお手次のお寺さん(名前は高木山浄光寺と言います)のいろいろな歴史やら、また明治から大正、昭和にかけての福井県内の出来事がとてもよく分かりました。特に市民目線で各地の伝承や秘話、言い伝えを丹念に集め、原稿化していたようです。
草稿とは言っても、読み物としては何の不足もなく、そのまま意図する内容が伝わるかたちになっています。これもひとえに編者としてまとめられた檀家の浅田さんのお陰ですね。

B5判、総頁数60、掲載された項目数は80件に上ります。例えば、金津奉行所(江戸時代には坂井郡一帯を取り仕切る福井藩の郡役所)の歴代の郡代の名列や丸岡藩が毎年正月に天守から大砲を(空砲ですが)打ち放った本当の理由や、金津から吉崎までの参詣道路が作られた経緯や柴田勝家の姉君の末森殿が賤ヶ岳の合戦の折り、竹田の山奥に身を隠していたが逃げ切れずに密かに自害した、との逸話やら沢山のエピソードが盛り込まれています。

なかでも、一向一揆で有名な下間筑後法橋が信長との戦いに敗れ、越前八郡を任された勝家の追っ手から逃れて三国(現坂井市)の下野で高田派の門徒に見つかり、首を討たれた話とか、薫界和尚の尽力により本願寺のお寺が中心となって学校を建て、子弟の教育に力を注いだが、のちにこの学校が発展して今の「私立北陸高校」になったという話など興味ある逸話が沢山取り上げられていました。<この稿続く>

2021年の年頭にあたって

奥越山地の夜明け2017年9月夜明け前の奥越山嶺(2017年9月撮影)
喪中の身ではありますが、年頭にあたりまして、今年一年の豊富と決意を述べさせていただきます。

年末にも書きましたが、昨年は本当に多忙を極めた一年でした。今年はコロナがまだ続いていることもあって、全く予断を許さない年になりそうです。唯、城歩きマンは昨年の出来事を踏まえて、一日、一日を大事に送っていこうと思っています。

冬の丈比競山2019年2月冬の丈競山(中央の山嶺)2019年2月撮影
具体的なことは何も決まっていませんが、ライフワークの山城については体の調子と相談しながら、ひとつでもふたつでも目標を立てて、こなしていきたいと思っています。このブログの来訪者の皆様には物足りなさも感じられるかと思いますが、ご容赦下さい。

若狭についてはまだしも、越前にあってはこれまでの踏査を通じて、いろいろなことが分かってきました。通説では思い及ばない、山城の構造理解。歴史の意外性。
そして一番陥りやすい、思い込みによる山城への一面的理解。そして実相への理解不足からくるアプローチ方法からの乖離、あるいは隘路。

福井城天守台石垣2012年4月福井城天守台の石垣(2012年4月撮影)
山城には地域性、歴史性をふまえたそれぞれの顔があり、これらを反映したそれぞれの山城の位置づけと、それぞれの山城がもっている相貌(あるいは表層)。これを捉え間違えると歴史はゆがみ、実相から遠のき、百家百様の「歴史」が出来上がる・・・。福井に限らず、山城研究を志すものに常につきまとう危険性(またはアイロニー)。

一度この隘路にはまり込むと抜け出すことができなくなってしまう。自戒の念を踏まえて、今年一年、精進を重ねたいと念じています。

2020年を振り返って

標識と土橋北から波多野城山頂部に新しく標識がお目見え(修復)
今年はいろいろなことが沢山あって、とてもまとめきることができません。心身ともに多忙を極めた、というのはこの事を言うのでしょう。
4月から開講予定だった山城入門講座が一身上の都合で取り止めにさせていただきました。応募して下さった多くの方々にお詫びを申し上げます。県内の山城や山歩きが好きな方々のためにと一昨年秋から準備してきましたが、断念せざるを得なくなりました。断腸の思いです。

また、定年以後、10年間宮仕えは控えてきましたが、偶然が重なって4月から日勤の宮仕え、通勤生活に入りました。古希を迎えるような後期高齢者の爺様を雇って下さるところがあって、かつてとった杵柄の文化財整理のお仕事をいただきました。2,3年ほど勤めてみようかと思っています。体力勝負です。
身辺の劇的な変化で、ライフワークにしている山城歩きは著しく制限を受けたような格好になりました。仕事の合間を縫って、できる範囲で山城歩きを続けていこうと思っております。

畝状竪堀3、4北西から波多野城の畝状竪堀群(12条が連続する箇所)
通勤生活の合間を縫って、あわら市の神宮寺城の現地説明会、福井市の赤谷城の現地踏査と発見届、テレビ番組への現地取材協力、ロケ随行。また地元FBC放送のいきいきセミナーの講座番組出演が続き、勤務先での文化財講座や、小中学校生徒への講習会などもやらせていただきました。
よくぞ体がもったなァ・・・、と自分自身に感謝。
逐一についてはご紹介できません。悪しからずご容赦下さい。
来年はまだ通勤生活が続きます。ウイークオフの時間帯を利用しての山歩きになると思います。一つ一つこなしていく、といった感じでしょうか。

福井の山城の新たな課題が見えてきました。単相に見える山城のあり方、形態のワンパターンの中に折り重なっている歴史の綾錦・・・とでも言うのでしょうか。少なくとも3パターンから4パターンまでの、山城の時代ごとの変遷の「相貌」を現地形から剥がしとる作業。
ワンパターンのものがあれば、それが時代の標識となる。その見分け方は・・・。

この一年でいろいろ考えました。あわら市神宮寺城、永平寺町波多野城、越前市村国山城、福井市赤谷城、坂井市雨乞山城等々。それぞれの山城がもつ「相貌」。これらをひとつひとつ、時代相で剥ぎ取る作業を試してみようと思います。

最後になりましたが、皆様、良いお年をお迎え下さい。