あわら市溝江館溝江館跡遺構模式図(『福井県の中近世城館跡』より引用、一部改変)
溝江館跡は先に紹介した堀江館跡(本荘城跡)の東、旧金津市街地を中心とした大溝1丁目にあります。
この居館跡については、本ブログの2012年10月5日「あわら市溝江館跡について」でも触れていますのでご参照ください。

プロフィール
本荘郷と同様、河口荘の十郷のひとつ、溝江郷を背景に成長してきた国人の一人です。朝倉氏が斯波氏に代わって越前で覇権を握るとこれに従い、重臣の一人に数えられるほどになりました。

ところが朝倉氏と信長の戦いの中で、最後は朝倉景鏡らとともに朝倉氏を見限り、信長方につきました。天正2年の一揆蜂起によって溝江氏は攻撃の対象とされ、一族は滅亡しますが溝江大炊允の息長氏が辛うじて生き延び、さらに長氏の息長晴が紆余曲折の後に彦根藩に仕官を許され、溝江氏は代々子孫を今に遺しています。

溝江館跡溝江館跡現地風景(説明板の奥に祠)
一押しのスポット
「越前国城跡考」には「河口荘溝江郷南金津ヨリ一町計坤(ひつじさる)方畑之内五十間四方計之所掻上堀形有之」とあります。地籍図から類推して、字「夕部」の東西100m、南北約110mがその範囲にあたるものと思われますが、現在は墓所とみられる一部の区画を除いて、他はすべて市街地化され遺構痕跡は確認できません。

この遺跡から200m北、竹田川の左岸部に金津奉行所跡があって、江戸時代初期の慶長15年(1610)以降、坂井郡一帯の行政、司法、警察の一手を司ったようです。
また遺跡の北東約100mのところに溝江氏の菩提寺妙隆寺があって、明治3年(1869)に描かれた「溝江館跡要図」が遺されています。この絵図から「外に堀の掻揚げあり」とあって周囲に堀が巡らされていることが分かっています。


溝江館跡は堀江館跡と同様、周辺が市街地化されて当時の遺構は全く残されていません。北東の隅にあわら市の町指定(昭和58年指定)にかかる墓地跡が遺されていて、当時を偲ぶよすがとなっています。

アクセス
溝江館跡へはJR芦原温泉駅から西へ徒歩約1.3㎞の距離です。県道122号を進み、金津小学校前で左折して竹田川を渡り、さらに南へ歩くと現地へ着きます。
バスでアクセスする場合は、JR芦原温泉駅で京福バス東尋坊線に乗車、金津小学校前で下車し、南へ徒歩300mの距離です。
自家用車でのアクセスは、遺跡の前にある集落センターで許可を取って、駐車するようにしてください。

補足
※金津町教育委員会1995『金津町埋蔵文化財調査概要 平成元年~五年度』
※松原信之2008『越前朝倉氏の研究』吉川弘文館
スポンサーサイト
少し間隔が開いてしまいましたが、地域おこしと城山巡りを再開したいと思います。

あわら市堀江館(本荘城)本荘城(堀江館)遺構概念図(『福井県の中近世城館跡』より引用、一部改変)
今回は堀江氏の居館跡です。この居館跡については本ブログ2012年10月2日「越前の有力国人堀江氏について」でも触れています。ご参照ください。

堀江氏とは越前斉藤氏を祖とする豪族で、坂井平野一帯の荘園を支配した有力国人の一人に数えられています。南北朝期から室町時代前期にかけては越前守護である斯波氏の配下で権勢を振い、また朝倉氏が台頭してくると主従関係を結び、重臣の一人として重きをなした一族でした。
先に紹介した細呂木館の城主、細呂木治部丞や細呂木薩摩守はいずれも堀江氏の一族と目されています。

10本荘城跡の北を流れる竹田川(ブログ用)本荘城の北を流れる竹田川
プロフィール
堀江館は現在、あわら市番田の堀江館とこの下番にある堀江館、そして春江町井ノ向にある海神城の三ヶ所が知られていますが、最初、番田に居館が築かれ、後にこの本荘地区に移り、最後に堀江氏の末裔が春江の井ノ向に海神(かいじん)城を築いて居城したと伝えられています。
本荘にある堀江館は別名本荘城とも呼ばれていますが、文字通り、番田、上番、中番、下番などの堀江郷一帯の中心、本荘のことを指します。


堀江館は坂井郡一帯の春日神社の総社に位置付けされる神社の西隣に位置し、北は竹田川を外堀として取り込み、春日神社との境界を堀で仕切り、その内側に土塁、堀でさらにいくつかの曲輪を配置した複郭式の居館跡と考えられています。
同様の例は同じあわら市の桑原館や御簾尾館などでも確認することができます。いずれも現在は水田化されていたり、あるいは市街地化されていて往時の面影を偲ぶことは出来ません。明治初期まで古地形が認められたと言い、古い地籍図でもはっきりと堀、土塁などを追跡、確認することができます。

13堀江氏墓所の墓塔群(ブログ用)堀江氏墓所の墓塔群
本荘小学校の西端には石塔が数体保存されている場所があります。「堀江氏の墓」と言い伝えられていますが、石塔はいずれも無銘で組合せ式五輪塔、及び宝篋印塔の部位を残すものが4体分組み合されて並んでいます。

一押しのスポット
本荘城(堀江館)のある場所は竹田川の左岸に接していて、堀江十楽、公文などの集落の横を流れて、三国の東端に至り九頭竜川と合流しています。竹田川は兵庫川、五味川、田島川、磯部川などの支流があり、いずれも坂井平野を潤して九頭竜川に合流します。

本荘城の周囲には中世に成立したと言われる興福寺領の坪江・河口庄が坂井郡一帯に分布し、12世紀ごろに十郷用水が整備され、この地の水利・灌漑が確保されました。十郷とは、河口荘に含まれる本庄郷をはじめ、新庄、王見、兵庫、大口、新、関、溝江、荒居、細呂木の各荘郷の総称です。

アクセス
本荘城(堀江館)へは「えちぜん鉄道三国芦原線」に乗車し、「本荘」で下車、西へ600mの距離で徒歩約20分の道程です。
自家用車でアクセスする場合は、春日神社横、本荘公民館で許可を取って駐車させてもらい、徒歩で散策されることをお勧めします。特に春日神社は平成28年に修理工事が完成し、本殿の装いも新たになりました。併せて見学するのも一興です。

補足
※松原信之1971「坂井郡における中世館跡の研究」『丸岡高校研究紀要 第三』丸岡高校

府中城跡の保存を!

編集_府中城跡発掘調査2017年7月15日 - コピー府中城跡の発掘状況(7月15日現地にて)
このところ、毎回のように新聞記事が見られる府中城跡の保存に関する問題。例えば、今年5月2日、5月8日、7月20日、8月8日、8月9日、8月11日…。福井新聞記者さんの熱の入りようが伝わってきます。

府中城跡の保存を「福井新聞8月8日付け」より
市庁舎が建っていた場所や、隣接している生涯学習センター、市民ホールなどの建物を取り壊して、新しく現地に越前市役所の建物を建設しようという計画ですが、その事前の発掘調査で戦国時代の末から江戸時代初期の頃に府中城を築城した前田氏や本多氏らの城跡の推移が分かる遺構が検出されました。
特に、江戸時代初期に造られた屋敷跡や庭園遺構、堀跡、石垣などが明瞭に残っていることが分かり、この時代の大名屋敷の構造や石垣などの築城方法が分かる貴重な遺構であるとの評価が得られています。
そうしたことから、府中城跡に関心を寄せる越前市民や内外の城郭ファンから、是非保存して欲しいという要望や、署名活動が始められているとのことです。

ひと頃、福井城下町の発掘が行われていたときは、あまりこうした動きは起らなかったのですが、府中城に至って運動が活発に行われているようで、今回はどういうように理解したらいいのか…。

しかも、府中城以外にもこの土地一帯は古代から、その名が示すように国府が置かれて政治、経済の中心だったこと、国分寺や国府跡などの遺構もどこかに埋もれているものと考えられ、市街地の開発工事の際には事前の発掘調査が行われ、多くの成果が示されています。

南北朝期にも新田氏や斯波氏が、この府中や周辺に城郭を構えて戦いを繰り広げたことが『太平記』に記されているところです。
今回新しい市庁舎を建設するにあたって、府中の象徴ともいえる府中城跡の遺構を何の対応もせずに取り壊して市庁舎を建てるならば、府中のお膝元である越前市の名折れではないか、というのが偽らざる心境でしょう。

昔から言われていて、最近は死語になりつつある言葉ですが、「遺跡は一度発掘したら二度と発掘できないし、一度破壊したら二度と元に戻せない」ということです。

府中城跡の再現検討(福井新聞20170811)福井新聞8月11日付けより
市民グループから保存要望書や、市議会への請願書が出されているとのことですが、理事者側は多くの出費が伴うので工事の計画変更はできない、日程が遅れれば、それだけで費用負担が大きくなる、と説明しているようです。

昔も今も理事者側の言い分は同じですね。
何か問題が出されると、こうした説明を繰り返して市民側を黙らせる…。きつい言い方ですが、行政側は費用負担のしわ寄せを市民にかぶせるようなやり方をいつまでも続けている。
しかし、この手のやり方は他所では通用しなくなっているはずなのですが…。

遺構を残すために工事が遅れる、計画が変更される、ということが余計な出費につながる、新たな費用負担が必要という理由は成り立ちません。

何故なら市庁舎の建て替えの計画が出された時点で、この問題が発生することは十二分に予測できたはずです。今時、全国いくつも例があるこの種の発掘調査について、よもや行政当局者が、建物の下にこんな遺構が出るとは思わなかった、などとは言えないことでしょう。
もし、それでもそう言うなら、そんなことは黙って言わせるわけにはいかないでしょう。過去にいくつもこうして遺構が破壊されてきたのですから。
学んで思わざればすなわち罔(くら)し…、とか言いますが、やはりおざなりにやり過ごすことはできないことだと思われます。

越前市当局の、誠意ある市民への対応を切に願うばかりです。

ふくいにも城ブームを!

福井城の石垣整備カルテを福井新聞8月8日付(第2面より)
今朝の福井新聞には、城関係の記事がいくつも掲載されていました。

まず第2面に福井城の石垣の補修にはその経過が分かるように、資料化して残すという内容の記事が載りました。言うまでもないことですが、福井城の石垣は地元産のシャクダニ石を使い、しかも切石加工したもので積み上げているというように、全国でもあまり類例のない、見事な石垣になっています。
この貴重な歴史遺産を後世にきちんと残していくためにも、補修の経過もきちんと資料化するということが指摘されたわけで、当然と言えば当然の話ですね。

ふたつ目の記事は連載記事になっている「研究者とゆく戦国朝倉氏――一乗谷遺跡発掘50年」という内容です。もう7回目になりますが、あらためて一乗谷朝倉氏遺跡の素晴らしさを50年目を振り返って見つめ直そうというものです。前回の6回目の記事には山城である一乗谷城について書かれていて、山城の特徴である畝状連続竪堀について、新しい解釈が紹介されていました。今日の7回目の話は遺跡を保存し、調査のあと国の特別史跡にまで格上げ指定して保存してきた地元の苦労話がいろいろと紹介されていました。

府中城跡の保存を同福井新聞(第27面より)
三つ目はこれまでにも少しずつご紹介している旧武生市の府中城跡の保存をめぐる話が記事になっていた、ということです。
この府中城跡は発掘調査の後は市庁舎建設のために取り壊して、建設工事に入るということになっていたのですが、検出された遺構が初期の築城に関わる遺構で、とても素晴らしいものだということもあり、保存して後世のために利活用できないか、という要望が出されている、ということでした。

ここへきて、福井新聞社はこうした城に関する記事をいくつも掲載しました。たまたま偶然重なっただけということかも知れないのですが、城好き人間には嬉しいことです。

ふくいは少し前に丸岡城の「国宝化」のことが話題になりました。また、福井城を整備しようという話も大きな話題にはなり切れず、今一つパッとしません。
大野城は「天空の城」ということで、ブームが沸き起こり、城周辺は観光客でとても賑やかです。勝山城は城よりも「平泉寺」のことが第一ですから、ここも今一つ盛り上がりに欠けるきらいがあります。ましてや「勝山城」博物館などというまがい物が平泉寺の近くに立っているので、勘違いする人やら誤解する人やら、とても目障りな「多田清コレクション展示場」ですね。

福井には何が足りない、と言ってこうした県内各地での城関係の施設がバラバラに動いている、その結果県内全体での運動が盛り上がって行かない、ということ。最近、この5月に福井市内で青年会議所が中心になって「全国城下町シンポジウム」が開催されたばかりですが、若者中心のお祭り騒ぎで終わっただけ、という印象が拭えません。

県内の城好き人間がどれだけ関われたのか、潜在的に城好き人間が県内にはたくさんおられる。そういう人たちが気安く、気軽に参加できる運動、ひいては「ふくいの城ブーム」を盛り上げていく力を蓄えていく必要があるかな…、と切に思うこの頃です。
城歩きマンが参加している「若越城の会」でも、こうした運動の手助けができたらいいな、と切望しています。

夏の丈競(たけくらべ)の夜明け

奥越山地の夏の夜明け(丈競山)夏の丈競山の夜明け
平成29年(2017)8月4日(金)朝、いつものように朝のウオーキング。
梅雨が明けた今日この頃、毎日うだるような暑さ。とても日中は歩けません。

いつも真夏になると、こうしてまだ暗いうちから抜け出て、少しは涼しい夜明け前に、いつものように九頭竜橋まで河川敷の公園を歩いています。

午前4時30分ごろにもなると、うすぼんやりと周りの景色も見えて、真っ暗闇ではないので、歩くのには全く支障がありません。簡易の懐中電灯も持って行くのですが、始めのしばらくだけで、あとは懐中電灯はいらず、さっさとポケットにしまって歩きに集中します。

河川敷の芝生にはカラスの群れがエサを探して何羽もウロウロと歩いています。たまにトンビが近寄ってきますが、それ以外は何もなく、鳥のさえずりも全く聞こえません。
川の流れのザアー、ザアーという音だけが遠くで聞こえるだけ。

折り返して、集落のはずれの堤防の階段まで来ると、ようやく日の出が近くなり、東の丈競山の辺りが金色に輝き始めます。
空の色と雲の色が薄い紫色から、ピンク色に代わり、そして黄色から黄金色に変わっていく時間ごとの景色の変化は言葉に尽くせない、神々しさが感じられてとても感動です。