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石丸城公園工事(東から)石丸城公園整備状況(南半部、東から)
令和2年4月26日(日)、いよいよ石丸城歴史公園が竣工式を迎えます。

平成24年頃から森田公民館の講座で石丸城の歴史公園化構想が話題となり、町内にある女子短大の協力を得て様々な取り組みを行なってきました。

区画整理事業「森田北東部区画整理工事」のうち石盛町内の都市公園用地、第4号公園の敷地に歴史公園の味付けをして整備を加えました。同公民館で行なっている「福井学講座」でも新田義貞に関する本を刊行したりして地区活動の雰囲気を盛り上げたりしてきましたが、こうした運動の総仕上げとして、今回石丸城跡の現地に、森田ではその目玉になるような公園が竣工しようとしています。

石丸城公園工事(東南から)石丸城公園整備状況(北半部、東南から)
この公園ができると、森田に来られた知人や親戚、あるいは歴史に関心のある市県民の方々がふと足を止めて、ここは何かあるのかな、南北朝時代の城があったところか・・・、と関心を持って見ていただけるようになると思います。その意味で森田にとっては大きな前進だと思います。

今まで森田にはかつてここに斯くゝゝ云々の史跡や伝承があった・・・、と記す石碑や案内板はありましたが、当時の面影をしのべるような記念物、また徴表などは全くありませんでした。今回も地下に遺構が眠っているという意味ではほぼ同じですが、遺構をできるだけ視覚に訴えて、分かりやすいように立体表現しようと工夫を凝らしている、という点で大きな意味があるのです。

ここはかつて、南北朝期に幕府方の斯波高経と戦った南朝の武将、新田義貞が拠点をおいた城跡です、ここはその居館跡で、ここは居館のうちの土塁で、ここは堀で、ここは入り口、門跡です・・・。というように説明しながら公園内を散策できる。
当時の戦いの様子が彷彿とよみがえってくる。『太平記』の世界がこの公園に立つと、臨場感を持って想像することができる。素晴らしいことです。

石丸城公園工事図石丸城公園整備計画図
この公園はまもなく完成披露します。
あとは地元に住む私たちがいかに利活用していくか、にかかっていると思います。公園の整備に携わった多くの皆さんのご努力に感謝いたします。
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最近の話題から

光太夫作詞、作曲の歌
このブログでもご紹介したことのあるアマチュアシンガーの幸太夫さんが、明智光秀の妻をモデルにした歌を作り、話題となっています。
福井新聞の2月15日付けの記事には3番までの歌詞も載せられていて、とても哀調を帯びた、美しい七五調の歌詞になっています。どうしたら、このような美しい詞が書けるのだろうかと不思議です。

今回は友人の依頼を受けて製作した、といっていますがその友人は高校の同級生だそうで、時折市内の遺跡や寺跡を一緒に訪ねたりする間柄です。幸太夫さんの地元の成願寺町の裏山に波着寺があって、戦国時代からの禅宗のお寺で幸太夫さんともゆかりのある古寺だそうです。

また一乗谷も成願寺町からはすぐ近くにあって、よく訪ね歩いて曲作りの構想を練ったりすると言います。城歩きマンも一乗谷とは深い関係ですから、同窓会などで顔を合わせるとこの話題になったりします。そういうご縁で幸太夫さんの「明智が妻の歌」にはとても興味、関心があります。

今、明智光秀が屋敷をもらって住んでいたという福井市の東大味町の明智神社や朝倉氏と出会う前に身を置いていたという坂井市の長崎にある称念寺が脚光を浴びています。大河ドラマのご縁で同地を訪れる観光客が大変増えているようですが、片方でこうした取り組みをどんどん増やしていき、市県民の皆さんの歓迎する意識を盛り上げていくことも大変大事かな、と思います。

越前市帆山城跡の踏査

Photo Editor_越前市帆山城跡の踏査 001帆山城跡遠望(北西から)
令和2年2月19日(水)越前市の帆山城跡を踏査しました。
この日も天気予報は「曇りのち晴れ」なので、思い切って登城することにしました。

Photo Editor_越前市帆山城跡の踏査 005帆山神社(西から)
村国山城跡とは尾根線が南にズレていて、比高差も70mはあるでしょうか、遊歩道がちゃんと整備されているかどうか不安でしたので、帆山集落の中程、帆山神社の境内裏から直登することにしました。猪よけの電気柵が張り巡らされていて、なかなか簡単には入れません。やっとの思いで、適当な場所からよじ登って柵を越えることができました。
この時期、冬場でもあり、柵の入り口が完全ガードされていました。

Photo Editor_越前市帆山城跡の踏査 014山頂部の岩の露頭箇所(東側から)
帆山城跡はL字型に尾根が曲がっていて、東側の岩内町に向かって延びています。一部を除いて概ね尾根線は緩やかで、上り下りは楽でした。地形的には南側斜面は比較的傾斜が緩やかで、北側がかなりの急勾配です。
村国山側から帆山の山頂部との中間当たりの尾根に出て、そこから踏査開始。
帆山城跡の印象は全体に遺構の配置が分散的で、北側尾根線で一カ所、山頂部から東側尾根線で3カ所と確認できましたが、間の距離も空いていて、ここでも確認できた曲輪は古墳との複合を考慮する必要があります。

Photo Editor_越前市帆山城跡の踏査 017帆山城中央部にある曲輪と堀切(西から)
各曲輪には切岸や畝状竪堀などの比較的新しい要素の遺構は確認できず、堀切の切れ込みもダラダラした感があります。
特筆すべきは山頂部の巨岩の露頭です。3,4m四方の大岩がゴロゴロむき出しになっていて、一部では節理のように割れ目が走っていますので、人為的に積み上げたか・・・、と思わせるような感じでした。

一部では岩を掘り出して、ポッカリ大穴が開いている箇所もあります。ひょっとして曲輪に石積みがあるのでは、と思いましたが思い過ごしでした。村国山も含めてここでの遺構には石積みは確認できませんでした。麓下の集落に牽き引き下ろしたものか、と思われます。

Photo Editor_越前市帆山城跡の踏査 018同曲輪の堀切(南側から)
帆山城南半部中央にある曲輪は西側に堀切を穿っていますが、反対の東側は緩やかな斜面となっていて、兵溜まりのような平坦地が2,3カ所確認できます。北側の斜面は切れ落ちていて、天然の切岸となっています。
また、尾根線は全体に幅が狭く、土橋状に整形したのか、と思わせるように一定の幅で続いていました。

Photo Editor_越前市帆山城跡の踏査 027土橋状に見える、切れ落ちた尾根通
村国山では尾根の両側が急傾斜で山全体が突き立っているような印象でした。中国の廬山に見立てられたのもけだし当然かな、と思います。それに比べて、帆山の方は南側で傾斜が緩やかで、平地のスペースを確保しやすい地形条件があります。富田長繁が一揆勢を迎え撃つのに多くの兵を駐屯し得るには十分なスペースだったか、と勝手に納得した城歩きマンでした。

越前市村国山城跡の踏査――その3

越前市村国山城の踏査 (9)山頂部南側、電波塔奥にある堀切と曲輪(西から)
頂上のパラグライダー飛行台からしばらく歩くと、防災アンテナの大きな電波塔に出くわしました。三角点からは150mほど歩いたでしょうか。約30m四方を大きく削り取って平坦地と柵を設け、約20mの高さの電波塔が天を突き刺すように立っていました。山頂部手前にも建っていたものですが・・・。
ここも曲輪があったものと思われますが、踏査不能状態です。村国山城の範囲は概ねこの辺りまでで、その先はノーマークになっていますが、かまわず東の尾根を進んでいきました。

頂上、三角点から東の尾根線上には電波塔までに1カ所、その先の尾根線にも1カ所、新たに堀切が確認され、また400m先の尾根線までの間に間隔はまばらですが、計3カ所曲輪が確認できました。従って村国山城はその範囲が遺跡地図に示された範囲を超えて、東側に広がる可能性が出てきました。

越前市村国山城の踏査 (6)山頂部北側第1の曲輪(南から)
村国山は麓下の平地部や山頂部も含めて、山全体が遺跡密集地となっています。古代から開けた武生盆地の川東にあって、50基以上の古墳群が尾根を中心に並んでいます。また北側の中腹には応永3年(1396)不見明見の創建と伝わる曹洞宗の興禅寺があり、周囲は中国の芦山にちなんで芦山公園と名付けられています。

越前市村国山城の踏査 (3)山頂部北側第1の曲輪と堀切(この左側斜面に畝状竪堀)
歴史的には戦国時代以前の南北朝期にもこの周辺が合戦の舞台となっていて、暦応4年(1341)の得江頼員軍忠状には、南朝方が帆山に押し寄せて城を構えようとしたので、頼員ら北朝方の軍勢がすぐさま攻撃を加えて敗走させたと報告しています。
この帆山の辺りは日野川の渡河点となっていて、府中から味真野に通じる交通の要所となっていました。戦国時代に富田弥六長繁と一揆が戦った帆山は、当然、府中の龍門寺城にいたであろう長繁を討つために帆山河原に結集したというのは必然的な流れでしょう。その山頂部に富田が築いた山城があったという推測も蓋然性は高いと思われます。

越前市村国山城の踏査 (4)山頂部北側第2の曲輪
まだ村国山の南半にある帆山城を踏査していない段階で軽々な発言は控えるべきですが、前々日にもブログで書いたとおり、帆山城を含めて全域が山城で埋め尽くされていた可能性は高いでしょう。
都市型公園の開発のために、山頂部、尾根線全体がカット、削平を受けてプライマリーな地形は望むべきもありません。そして大正11年(1922)に整備されたという芦山公園が桜の名所となって市民に親しまれていることと裏腹に、埴輪や須恵器片が出土したという山頂部古墳の実態が今もよく分からないままです。

越前市村国山城の踏査 (5)山頂部北側の分岐点(薬師堂跡・山頂へ)
何よりも越前市のほぼ中心部に位置している村国山は市民のシンボルでもあり、愛されるべき存在でもあるのですが、その歴史的な位置づけは全く不十分です。古墳群とともに山城の存在が指摘されているのにもかかわらず、その実態もほとんど不明。一体マーキングされている三つの山城はどのような縄張りでしょうか?

越前市村国山城の踏査 (1)日野川べりからパラグライダーを目撃
願わくは一日も早く、こうした歴史の断片をつないでいって、分かりやすい村国山、親しみやすい村国山を目指すべきではないでしょうか。城歩きマンも残りの山城を踏破して、少しでもその実態を皆さんにお伝えできるように老骨に鞭打っていきたいと思っています。

越前市村国山城跡の踏査――その2

越前市村国山城の踏査 (7)山頂部から日野山を望む
2月15日(土)越前市の村国山城跡の踏査を実施しました。

頂上の狭い駐車スペースのところから、尾根に沿って北へ向かいます。頂上は遊歩道のために掘削されてかなりのスペースで平坦地が作られています。その平坦地の北の端から道に沿って歩き出しましたが、のっけから道の脇に何やら竪堀が切られているのが見えます。頂上の駐車位置から北へ約100mも歩いたでしょうか、3カ所に曲輪があって、その、いずれも東斜面に等間隔(?)に畝状竪堀が垂下しているではありませんか!

越前市村国山城跡分布図②越前市村国山の山城分布図(城域は村国山城の東側尾根線へ広がる)
そう言えば『日本城郭大系』の帆山城の項で、北側尾根の東斜面に数条の竪堀が見られる、との指摘がありましたっけ。位置図や遺構配置図がないため、この文章だけではピンとこず、どのことを指すのか、認識できていませんでした。
やはり、百聞は一見に如かず・・・、です。

その数は7条から8条。斜面を横ばいで、竪堀の位置を確認しながら進んでいったところ、始めの駐車スペースの位置に戻ってきました。どうやら東側斜面一帯が勾配が緩やかで、しかも谷地形となっています。この斜面に畝状竪堀が切られている・・・。北端部100mのところからは尾根線が急傾斜になって興禅寺の方へ落ちていきます。ここで一端戻って、展望台の方へ向かいます。

越前市村国山城の踏査 (8)展望台西側斜面に作られたパラグライダー用の発射台
展望台には先ほどのパラグライダーの飛行台がつくられていて、斜面が幅30mほど削られています。そこで、数人のスタッフがパラグライダーのパラシュートを広げて、飛行の準備をしているところに出くわしました。ちょうど頂上の水準点のすぐ脇の位置です。

3人目の人が飛行のスタンバイをして、風が吹くのを待っています。今日は頂上でもほとんど無風状態で、曇っていて、風はほとんどありません。脇にある「吹き流し」のそよぐのを見計らって飛ぶのだそうです。飛行時間は約5分。意外と短い。

しばらく待ってカメラに、飛び立つところを納めようと構えていましたが、飛行チャンスはなかなか来ません。しびれを切らして城歩きマンは尾根の南側の遺構確認のために歩き出しました。