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愛知県豊田市市場城跡の踏査(その2)

Photo Editor_豊田市市場城跡の見学 011巨岩が露頭している登城道の杉林の道にある竪堀
令和元年6月22日(土)豊田市の市場城跡を踏査しました。片道220kmある市場城現地への一日がかりの見学行でしたが、とても収穫の多い一日となり、遠くまで出張ってきたかいがありました。

見学会に集まってきた名古屋在住の皆様とも和気あいあいのうちに見て廻れました。

市場城は標高390mの丘陵で、登り口からの比高差は約60m。見学道が整備されていて、一蹴するのに約15分と、とても気軽に回れる大きさの城跡です。ウオーキングがてらに歩くのに最適の遺跡かなと思われます。

さっそく登城道を登ります。少し急な坂道ですが、分岐のあるところまでです。ここを右に曲がって赤い鳥居の並ぶ祠に出ます。杉林になっています。この遊歩道の東や面に竪堀が3,4条確認できます。
鳥居のところから空堀になっている谷あいの道を登ると主郭部の石垣が正面に見えてきます。
Photo Editor_豊田市市場城跡の見学 017神社鳥居から上がってくると手前に見える石垣
一番手前の石垣は現状のままらしいのですが、上の段の石垣は積み直しが行われているので、要注意です。
自然石を使った野面積みですが、割石を巧みに配して、布積みの手法も見受けられます。天正末頃から慶長期にかけての割石を使った石垣積みに近いものです。

Photo Editor_豊田市市場城跡の見学 020主郭部西南隅の石垣(積み直しされたもの)
この石垣の西は主郭部となっていて、東西に長いプランです。畝状竪堀のある西北部へ降りていく斜面側の虎口と呼ばれる部分は大きめの割石をきれいに積み上げた石垣が遺存しており、従来の虎口部は崩れたか、埋没したかのような印象です。

この虎口部からさんざ畑にある外桝形の虎口とされる部分へのつながりがはっきりしません。遊歩道は主郭部から直接畝状竪堀のあるところへと繋いでいます。石垣を用いた改修が一連のものなら、外桝形から主郭部への登城道が繋がっているはずですが…。この辺りのところは、一見しただけでは見通す事が出来ませんでした。(この項続く)
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愛知県豊田市市場城跡の踏査

Photo Editor_豊田市市場城跡の見学 003遺跡に隣接している駐車場(道路から)
令和元年6月22日(土)午前10時からお昼にかけて、標記の山城を見学、踏査しました。
この山城は名古屋市に住むMさんの呼びかけに参加したもので、名古屋の城好きの人が集まって、今回企画された山城見学会です。
市場城跡はいくつかの点で愛知県三河地方では特徴をもった山城の一つに数えられていて、城歩きマンとしてはぜひ一度、じっくりと見学してみたいと思っていた山城です。
当日は梅雨の真最中で、雨天が予想されていましたが、いい方に外れて薄曇りの天気となり、終日、合羽を着ずに城歩きを楽しむことが出来ました。

Photo Editor_豊田市市場城跡の見学 002遺跡への見学道(駐車場の前にある登城道)
市場城は西三河に勢力をもっていた三河鈴木氏の一族の足助鈴木氏が、応永年間に小原谷の市場古城に居城したのが始まりとされています。長禄3年(1459)には鱸(すずき)藤五郎親信が支配したといいます。
文亀2年(1502)親信は現市場城に新たに城を築き、以後鱸氏が4代88年間居城しました。4代目の重愛(しげよし)は徳川家康の配下に属して功を挙げ、天正11年(1583)には領地を加増されて、市場城も大改修が加えられました。
このとき、新たに石垣を築き、曲輪を構えたりしたといいます。その後家康の関東移封に従わず、また秀吉の命にも背いて市場城を退去させられ、城は文禄元年(1592)廃棄されたようです。


天正11年に大改修を加えた旨の記録があることから、石垣や外桝形虎口(さんざ畑につながるもの)などの遺構はこの時のものである、とする先学の指摘があります。また畝状竪堀が城跡の北西と廣圓寺側の東斜面にみられ、そのうちの北西方向の巨大な畝状竪堀(3~4条)が石垣積みの桝形虎口を構築するため、登城道が新たに畝状竪堀を破壊して敷かれた、とする見解も出されて、畝状竪堀の下限が天正11年とする考え方に発展しました。

市場城跡位置図(当日見学会資料より引用)市場城、市場古城の位置図(当日の見学会資料より引用)
しかし、この説には少し問題があるやに見受けられます。畝状竪堀はこの時期以降、使用されなくなったというには難があり、現に文禄・慶長年間の朝鮮に築かれた倭城に、畝状竪堀が見られます。
翻って考えるに、何をもって畝状竪堀が廃棄されたとするか…。市場城の場合、畝状竪堀の付け根部分に登城道が新たに設置された、と言い、この時点で畝状竪堀が壊されたというのですが、付け根部分は横堀が通っているのが多くの畝状竪堀に見受けられる在り方です。機能的には畝状竪堀が破壊されたとみる向きに賛同しかねます。

Photo Editor_豊田市市場城跡の見学 004遺跡入り口の前に立つ説明板
そんなこんなで、是非にも現地でこのことを確かめたいと思っていました。
実際、現地に立つと畝状竪堀の規模の大きさに圧倒されましたが、機能が損なわれたものとは見受けられませんでした。畝状竪堀の遺存状態はとても良好で、杉林の中にひっそりとその威容を横たえていました…。

百聞は一見に如かず、とはよく言ったもので、この言葉の意味が胸に染みました。静岡や愛知の東海地方に分布する山城の中でこうした空堀の太くて、深いがっしりしたつくりの共通の在り方を目の当たりにしたような感慨に打たれました。城歩きマンはそんなにたくさん東海地方の山城を見たわけではありませんが、市場城を見た瞬間、そんな感慨を覚えたものです。(この項続く)

「ふくいの山城へいざ!」に感謝!

令和元年6月20日(木)先日の記事でも少し触れましたが、昨年4月から始まったこの福井新聞連載の「ふくいの山城へいざ!」は1年と4か月の長きにわたって継続する事が出来ました。
筆者のもとへは、新聞社編集部を介してアクセス欄の記事内容の手違いや間違いに対する指摘、また励ましのお言葉などいろいろとお寄せいただき恐縮しております。間もなく7月の第2週で終了の予定です。
昨日もこの記事に関して、地元高浜の方から「今連載中の山城へいざの記事に書いてある山城は、登れるんですか?道はあるんですか?といった質問から始まって、来年度のことでまだ先の話だけれど、城の話をしてもらえないか、という依頼でした。

ふくいの山城へいざ!第63回
先日の勝山市では講演の後、壇ヶ城について今後いろいろ教えてください、とか。越前市でも大塩城について地区でも話をしてもらえないか、とかアプローチしてくる人がありました。
この連載のおかげで、昨年から講演や、現地見学会、測量調査の現地指導などたくさんのオファーが舞い込み、2,3年前とは段違いに忙しいスケジュールになってきています。全くありがたい話で、連載記事様様です…。

当初の城歩きマンの目的だった、福井のお城への関心を高めるといった働きかけは、多少は叶ってきているのかな――といったところです。
それと同時に、これまで筆者に対してご指導、ご鞭撻をいただいた先学の研究者、特に『日本城郭大系』の福井県分を率先、先導されたKさん、つい最近鬼籍に入られたのですが何とかご霊前に報告できるかな…、と心密かに手を合わせています。
また、若狭については大変なご苦労の末に、若狭の山城をまとめて著書を刊行されたOさん、この方も今はなくなられて久しい年月が経っていますが、生前に受けた学恩に少しは報いる事が出来たかな、と思っています。

その他にも常日頃から山城や城館を通じて、なにかとご教示を賜っている先輩諸氏の方々、若越城の会の方々にもお礼を申し上げねばなりません。

つい最近ですが、山の日にちなんで講演を、という依頼が入ってきました。県のさる部署からの依頼ですが、いつもは登山に関する話をしているのを、今回は山に引っ掛けて山城の話を、といった趣向のようです。
そこで山城の魅力をたっぷり盛り込んだ話を、と今から城歩きマンは気合が入っております。こうした依頼は願ってもないことで、こちらからお願いをしてでもやりたいことでした。この機会を通じて山城の魅力を県民、市民にお伝えする事が出来れば本望です。

あとはこの連載記事の成果を受けて、これまで福井になかった山城のガイドブックの刊行!何とか実現したいものです。

最近の話題から

このところブログアップに間が空いてしまいました。

何やら雑用に追いかけられて、ゆっくりパソコンに向かってお城の話題を綴っていることが少なくなっています。
今週の火曜日に県内の勝山市に講演会で出かけてきました。朝9時からというので、朝食を済ませて間もなく家を出ることになりました。朝の通勤ラッシュ、久々に経験しました。

Photo Editor_IMG_20190616_0001_NEW
勝山市の講演は市内にあるそれぞれの山城をセレクトして紹介し、それぞれが勝山の歴史に深く関わっていることをお話しするのが目的です。山城は大なり小なり、時の為政者が周囲の多大な犠牲を伴って創り出したモニュメントであり、城づくりに関わった多くの人間の営みがしみ込んでいると思われます。

そうした営みを、もつれた糸をほぐすような気持で一つ一つ説き起こしていく、というのが山城研究の城歩きマンなりのスタンスです。勝山では鷲ヶ岳城、壇ヶ城、野津又城、村岡山城、平泉寺、三室山城などを取り上げました。

さらに昨日の土曜日には越前市のほうで講演会に臨みました。
こちらは地元にある小丸城跡について、じっくりと現状の遺構の様子を観察、分析し、一見すると特異な城跡のように思われる小丸城の在り方を福井県の内外にある、同時代の城跡を比較検討を行いながら、小丸城の在り方の真実に迫ろうという趣向です。

比較検討に取り上げた城跡は北ノ庄城、富山の安田城、高岡城、富山城、そして名古屋にある清洲城の5ヵ所です。いずれも平地に作られたお城であり、立派な堀(水堀)で囲まれた悌郭式と呼ばれるタイプの城跡です。

小丸城は現在、周囲が民家や工場が立ち並んでいて、わずかに本丸の高台部分が残っているだけ…。広大なプランで築城された安田城や富山城、あるいは究極的に言って清洲城をお手本としたような城跡だとは思えない状況です。
こうしたお城に匹敵する歴史的にも貴重な小丸城を、もっと手を加えて整備をし、歴史的な価値を見直すきっかけにしていってほしいと切に願いながらお話をしました。

土地に刻まれた歴史
両方で城の魅力を話す題材にと、古島敏雄先生の『土地に刻まれた歴史』という岩波新書の本を紹介しました。この本は城歩きマンがいつも座右の書として傍において読んでいる本の一つです。とてもサゼッションに満ちていて、城歩きに勇気をもらっている書物になっています。

越前大野城跡の再々踏査

大野城跡竪堀の踏査 (1)麻木櫓下竪堀と石垣(?)状遺構
令和元年5月18日(土)大野城跡の踏査を実施しました。
以前から大野城は何度も訪れている城跡ですが、今回は大野市の小山荘歴史の会の方々と一緒に大野城跡の竪堀を見る見学会となりました。

大野城跡竪堀の踏査 (3)麻木櫓下竪堀(遊歩道下から)
同歴史の会のMさんに事前連絡をして、一緒に如何ですか、とお誘いしましたところ心安く応じていただき、他にも多くの会員の皆様を募っていただき、総勢10人ほどの集団で竪堀の見学を実施することになりました。市役所からもSさんが特別参加され、竪堀以外にも中世山城の性格を見直すまたとない勉強会になり、城歩きマンも大変満足する事が出来ました。

名古屋から駆けつけてくれたMさん、先日虎杖城跡を案内してくれた武生在住のKさんも加わってくれました。皆様大変お疲れ様でした。ありがとうございます。

大野城跡竪堀の踏査 (5)麻木櫓下竪堀(上段から)
さて、件の大野城の竪堀ですが、Sさんのこれまでの調査でもいろいろと該当する場所があって、彼の作成した位置図には計5ヵ所ピックアップされています。そのうち城歩きマンが指摘した場所の3ヵ所が重なり、既に市役所側では認識されていたものだということが判明しました。大きな成果です。何らかの形でこれを大野城跡の「山城としての性格付け」に反映させることが必要です。

大野城跡踏査略図2019年5月18日大野城跡の踏査略図
この他にも可能性のある曲輪や土塁状の遺構が指摘され、例えば南西裾の赤根川にかかる長寿橋付近の尾根二方向に段曲輪が2,3段確認できましたし、北側斜面の山裾では南北に3ヵ所、土塁状の高まりがまるで居館を仕切るかのように並んでいるのが確認できました。

踏査の途中でいろいろと話題が出され、これまでにも幾人かの研究者や関係者の方々が指摘している問題ですが、金森長近築城の大野城、実はこれを南北朝期以降登場する「亥(居)山城」だったのではないかということです。

地元の小山荘歴史の会の方々もこの問題に大きな関心があるようで、熱っぽく「亥山城」の可能性を話してくれました。この話はもう少し時間をかけてじっくり取り組むべき課題だと思います。
思いがけず、いろいろな話題が出されて、終始飽きることのない城談義に花を咲かせる事が出来た一日でした。
感謝。