小丸城―地域おこしと城山巡り(64)

1越前市龍門寺城の踏査2017年10月29日龍泉寺ならぬ龍門寺の山門
先日、10月29日(日)午前10時から越前市龍門寺にて「立葵会」市内巡見があるというので出かけてみました。
しかし、予定の時間になってもだれも龍門寺に集まってこない様子で、どうやら見学会は中止のようでした。この日は携帯を持ってくるのを忘れたので、問い合わせることもできずにすごすごと帰ってきました。

後日もう一度、「立葵会」の市内巡見のお知らせを確認し直しましたら、お寺の名前が「龍泉寺」になっているではありませんか?
誰も来ないはずです。寺の名前を覚え違いしていたのですから…。龍門寺と龍泉寺、武生には似たような名前のお寺がいくつもあるようで…
これで失敗は今年に入って2度目です。じつにへこみます。この先大丈夫か――?

2越前市小丸城の踏査2017年10月29日小丸城跡の石碑と説明板(道路側から)
プロフィール
話をすすめますが、その帰りの足で、近くの小丸城を訪ねることにしました。この城跡は丹南地区では重要な城跡のひとつです。紹介する順序がアチコチと飛びますが、ご容赦ください。ついでのこともあって、今回、このコーナーで取り上げてみます。

3越前市小丸城の踏査2017年10月29日小丸城跡本丸跡の櫓台(南から)
小丸城では雨がだんだんひどい降りになって、ザアーザアーと滝のように流れ落ちてきます。しかし、車の中でしばらく待っても小止みになる様子もなく、城跡の踏査を敢行することにしました。全身びしょ濡れでしたが、遺構写真の取り忘れの箇所があったことを思い出し、その場所を優先的に回ってカメラに納めてきました。

4越前市小丸城の踏査2017年10月29日本丸を取り巻く土塁と堀(東側面)
今回は長いこと足を向けていなかった野々宮廃寺跡のほうにも回ってみました。先日の21号台風の影響が心配だったからです。案の定、何ヶ所かで樹木の倒壊が確認されました。この小丸城に限らず、遺跡の整備関係者にはこうした自然災害による荒廃が一番堪えると思われます。いつやってくるか分からず、しかも大規模に被害が起きる場合が多いからです。

小丸城跡については2014年1月31日付「越前市小丸城跡の行く末は?」、2016年9月27日「ふるさと福井の歴史と文化財に学ぶ、現地見学会について」でもアップしています。併せて参照ください。

5越前市小丸城の踏査2017年10月29日本丸部分南東隅土塁(市道が東西に縦貫していて、一見すると見落としがちですが、道路の南側に本丸の土塁が分断されて遺存しています。)
小丸城は、天正3年(1575)越前を再制覇した織田信長が、その仕置を行うにあたって、越前八郡を柴田勝家にまかせ、大野郡は金森長近と原彦次郎、府中二郡は前田、不破、佐々の三人に統治を任せました。

このうち、府中城には前田、龍門寺城には不破が入り、小丸城に佐々成政が築城して、入城しました。佐々成政が、府中の少し離れた東の位置にわざわざ新たに築城したのは、五分市の南方萱谷(かやだに)町の奥に聳える日野山の脇、牧谷越から続く朝倉街道、また真柄氏の居館から府中へ抜ける道、あるいは粟田部、大滝から池田、大野へ抜ける街道などが集まる要の位置をおさえるためでした。

6越前市小丸城の踏査2017年10月29日本丸南東隅櫓台の入口部分(東から)
小丸城のプランは以前のブログでも紹介したかと思いますが、尾張の清州城や越中の安田城、あるいは富山城など平地に築かれた「館城」とも表現される形態の城郭で、二重、三重に張り巡らされた水堀で防禦されるのが大きな特徴です。曲輪の配置は概ね梯郭式と呼ばれるものでした。
7越前市小丸城の踏査2017年10月29日小丸城跡本丸土塁、北東隅部分(現在畑地になっている)
小丸城は古代の野々宮廃寺跡を利用(?)して、巧みに南北にプラン配置を整えた構造になっています。今、南北約400mの間には本丸部分と古城跡、北小丸、小丸、的場などの地字が遺り、本丸部分を取り巻く堀、土塁跡が部分的にではありますが現地に遺存し、当時の様子を偲べる景観となっています。

一押しスポット
一押しスポットは、何といっても本丸跡にある入り口の石垣積みでしょう。本丸の南東隅に櫓台ふうに積み上げられた台状部分に地下式入り口を設けて、ここから出入りする構造となっていたものと推定されます。地上何層になっていたかは分かりませんが二、三階の櫓が組まれていた可能性は大きいと思います。

小丸城跡遺構模式図小丸城跡遺構模式図(『福井県の中世城館跡』より引用、一部改変して掲載)
アクセス
JR武生駅から福鉄バスに乗車、五分市本山口で下車して、北へ1㎞、徒歩約15分で小丸城跡に着くことができます。自家用車でアクセスする場合は、国道8号線「庄田」の交差点で東へ進み、越前の里「味真野苑」をめざして直進し、公園の北を約1.5㎞進んだところが小丸城跡です。
8越前市小丸城の踏査2017年10月29日野々宮廃寺・的場跡を望む(北から)
9越前市小丸城の踏査2017年10月29日野々宮廃寺・的場跡(南から)
補足
小丸城や越前の里味真野苑周辺には、城福寺、豪摂寺、鞍谷御所跡、武衛山城跡などの古刹寺院や遺跡があります。また小丸城から北東約2㎞の位置には越前和紙の里があり、大滝神社、大滝城跡などが見学できます。併せて廻られることをお勧めします。
スポンサーサイト
編集_IMG_20171112_0001_NEW
11月7日(火)福井新聞に「大野の山城」冊子改訂、という記事が出ました。
➡平成25(2013)年4月26日付け「地元で作った山城のガイドブック『山城は語る』」で最初にこの本のことをアップしていますのでご参照ください。

4年前の平成25(2013)年4月に大野の郷土史愛好家で作る「小山荘歴史の会」の人たちが大野、勝山市に今も残っている山城を訪ね歩き、現状をまとめ、城の様子をスケッチにして一冊の本を作ったのですが、4年経ってその本が完売したので、より多くの人に知ってもらうために改訂版を刊行したというものです。

なかなかいい話ですね。大野、勝山を合わせて40数カ所にも及ぶ山城を歩き、歴史にまつわるエピソードや現状を報告したものが、今まで県内ではほとんど見当たらなかったものですから、当時は城歩きマンも大変うれしく思ったし、又大野、勝山の山城の実情がいろいろと分かるようになって、研究上も大いに助かったものでした。

福井にも地元の山の歴史や城跡の遺構に興味をもって、これを地域の内外に広めていこうとしている人たちがいる、ということが分かって感動したものでした。

今回はその本が非常に多くの人達に受け入れられて、増刷を願う人がたくさんあったのでしょうか、改訂版の発行というかたちでそれが実現したものでしょう。紙質が書籍用紙からアート紙に変わり、判型がA5判からB5判に大きくなったのも大きな変更点ですが、何よりも写真やスケッチの体裁をいろいろ替えていて、以前より読みやすく、各山城の与える印象がぐっと効果的に変わった点が良かったと思います。

この本をつくったメンバーの方々の顔ぶれを見ていますと、殆どが中年以上の年配の人たちのようで、城歩きマンには世代が近いこともあってとても身近に感じました。
山城のスケッチは、縄張図を採用した方がいいという専門家の提案もあったと言いますが、スケッチの方が味があって、親しみやすい印象を受けるのでこちらを採用したんだ、と会長の高津さんは話していました。

編集_IMG_20171112_0002_NEW
一体に、今までこうした性質の本が福井にあったでしょうか?
特に山城に関する紹介本が県内で刊行されたことがあったでしょうか?答えは否、です。

研究書はもちろんですが、一般向けに書かれた紹介本が今までひとつもなかった。地域が大野と勝山に限定されてはいますが、こうして実際に歩いて、見て、調べた結果を本にしたものは、この本が最初だということ。
素晴らしいことだと思います。城歩きマンは、4年前にこの本を手に入れるためにわざわざ、大野の本屋さんまで車を走らせて買いに行きました。
そして、大野の山奥にあって、名前しか知られていないような山城が実はちゃんと存在しているんだということをこの本によって教えられましたし、今までどんなだろうか、と調べる術も知らずにいたものが、目の前の靄が晴れてスカッとした気分になったことを覚えています。

やはり、知は力、と言いますが知識というものは素晴らしいと思いました。
旧西谷村のクタラキ砦跡、独小山城跡、笹又城跡などはあるのかないのか、存在さえ疑わしいものでしたが、実際に踏査されて、その内容が明らかになりました。築城に関する時期的なことは、今はさておいても、こうした地道な追跡調査が福井には絶対的に欠けている事柄なのです。

小山荘歴史の会の皆様に敬意を表するとともに、今後もこうした追跡調査を継続されることを切に希望したいと思います。もちろん、城歩きマンもこれを見習って、地道に追跡調査を続けていきたいと思います。

鳥越城跡・二曲城跡の踏査(その2)

鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (8)中ノ丸から北方を望む(手取川と大日川が合流するあたり)
10月28日(土)石川県白山市鳥越城と二曲城を踏査しました。前日に引き続き、城跡見学の感想をお話ししたいと思います。

鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (11)本丸跡枡形門と土塁
鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (10)本丸跡南面の櫓門
各曲輪は北から順に後三ノ丸、後二ノ丸、本丸、中ノ丸、二ノ丸、三ノ丸と6ヶ所に連続して並ぶいわゆる連郭式山城の典型的な縄張です。また、本丸や二ノ丸周辺の斜面下には腰曲輪が取り巻き、堀切がそれぞれの曲輪の間に刻まれています。
曲輪の斜面は丁寧に整形され、切岸がとても明瞭に確認できます。本丸、後二ノ丸、中ノ丸、二ノ丸では土塁が確認され、二ノ丸門へ通じる坂道や本丸の枡形虎口、さらには本丸と中ノ丸との間に掘り込まれた空堀、通称首切り谷の付け根にそれぞれ石垣が施されています。

鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (12)本丸跡全景(南から)
鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (13)本丸の埋甕遺構(酒の醸造に使ったとか…)
鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (7)中ノ丸入口の門(内側から)
石垣は加工痕のない自然石を用いただけの野面積みとなっています。隅角部分にはいわゆる算木積みの手法に近い形態が確認できます。これら土塁や石垣の技法は曲輪中心部のさらに重要な曲輪、即ち、本丸、二ノ丸、中ノ丸等に集中していて当初の縄張りとは時期差が感じられます。おそらく、土塁や石垣の手法は天正8(1580)年以後、一揆勢力の後に侵攻してきた織豊勢力の諸将に拠って修築された結果であろうと推察されます。

鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (9)二ノ丸跡の整備箇所に痛々しく残るイノシシの荒らしたでこぼこ…
鳥越城跡では昭和50年頃から進められていた城山地区での土取り工事で城跡の崩落の危険性が指摘され、(旧)鳥越村教育委員会は石川考古学研究会や県教委と協議し、緊急の発掘調査が昭和52(1977)年から54年まで行われることになりました。調査はその後も平成14(2002)年まで継続されました。鳥越城跡は二曲城跡と共に昭和60年9月に国の史跡に指定され、環境整備事業が進められ、石川県では能登の七尾城と並んで石川の中世山城を代表する史跡公園となっています。

二曲城跡現地見学会2017年10月28日 (1)二曲城跡入口の通路
二曲城跡現地見学会2017年10月28日 (2)二曲城跡入口の説明板と石碑
一方、二曲城は鳥越城からは南に約1.0㎞離れて相対する丘陵の頂部にあります。標高は約268mで頂部の本丸とみられる曲輪を中心にその急傾斜する尾根線上に段々上に多くの小曲輪が築かれ、中腹には土塁や堀切をもつ二の曲輪、さらにその前面にも堀切を伴う小曲輪が取り付いています。

二曲城跡現地見学会2017年10月28日 (3)二曲城北端部の堀切と曲輪
二曲城の二曲(ふとげ)は「二端笥」とも表記し、転訛して今の音に変化したと思われます。何とも読みにくい地名です。余談ですが、石川県や福井県の日本海側やそれに近い地域にはこうした難解な標記の地名が数多くあります。例えば石動(いするぎ)、羽咋(はくい)、動橋(いぶりばし)、四十万(しじま)などなど。福井では轟(どめき)、和布(めら)、朽飯(くだし)、干飯崎(かれいざき)などです。

二曲城跡現地見学会2017年10月28日 (4)二の曲輪西側の土塁
二曲城跡現地見学会2017年10月28日 (5)二の曲輪西側の掘立柱建物
二曲城跡の発掘調査は平成16,17年の二ヶ年にわたって行われました。山頂部の本丸とされる曲輪や尾根線の中段に位置する土塁囲みの曲輪、南西側の谷をはさんだ丘陵部の四の曲輪などが発掘されそれぞれに礎石建物跡、掘立柱建物跡、土塁、石垣、石敷遺構等々が検出されています。

二曲城跡現地見学会2017年10月28日 (6)二の曲輪東面の崩落箇所
特異な遺構としては、本丸の南西側にある谷部に造られた曲輪と土塁状の遺構、その前面に掘られた空堀状の遺構が見られることで、どのような性格の遺構なのかは記述されていませんが他に類例のないものです。よく説明を聞かないと、後世に造られたため池かなにかと間違えてしまいそうな遺構です。

二曲城跡現地見学会2017年10月28日 (7)本丸跡入口の石敷路
また、本丸の説明が終わった後で、質問の時間になり、少し気になったことで、遺構の整備に関して土塁が廻る曲輪のところであまりに土塁が低すぎるので、どうしてだろうか、と訊ねてみました。
二曲城跡現地見学会2017年10月28日 (8)本丸跡から南の方角に白山連峰が見通せました(青い矢印)
案内に立った人の話では、廃城になった段階で土塁を壊していったので、低いままで復元整備してある、というようなことでした。これは二曲城全体にみられることで、一部鳥越城でも本丸の土塁は低い状態で整備されていました。
二ノ丸や中ノ丸の土塁はしっかりとした造りであるのととても対照的で、印象に残りました。

二曲城跡現地見学会2017年10月28日 (9)二曲城跡本丸整備状況(東から)
そんなことをあれこれ考えながら、二曲城跡をあとにしました。

鳥越城跡・二曲城跡の踏査

編集_IMG_20171030_0006_NEW鳥越城跡の発掘前の状況(1979年発行の石川県教委が刊行した遺跡調査報告概報の表紙写真から)
日付が前後しますが、10月28日(土)午後1時より石川県白山市鳥越城跡、二曲(ふとげ)城跡で現地見学会がありましたので参加し、二ヶ所の山城跡を踏査しました。

編集_IMG_20171104_0001_NEW鳥越城、二曲城の位置図(国土地理院の地図を一部改変して引用しました。赤枠は城跡の範囲です。)
かつて若越城の会が平成11(1999)年10月に見学会を実施している城跡ですが、城歩きマンは当時、この見学会には参加できず、それから遡って城歩きマンが就職して間もない、駆け出しの時期の昭和50年代後半ごろに発掘調査中の現場を見てから、実に35年ぶりの見学でした。



鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (2)白山市別宮町鳥越公民館(今回の集合場所)
今回の見学会は白山市鳥越公民館と鳥越一向一揆歴史館との合同企画による見学会で、秋も深まった白山の山麓部で、戦国時代の一向一揆と織田信長勢力との戦いのあとを示す著名な山城を探訪しながら、紅葉と歴史のロマンを同時に味わおうという、大変欲張りな、しかし歴史好きな人たちには垂涎の企画でした。

鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (1)当日用に鳥越公民館に展示された発掘品(見学の前に公民館で鳥越城や二曲城の歴史、また発掘の経過などを伺いました)
当日は2週続けての台風接近(21号に続いて22号が日本列島に近づいていました)に影響されて天候は荒れ模様で、雨風が強くなる、との予報でしたが何とか小雨程度で大きな崩れはありませんでした。
見学会の講師は鳥越城の発掘調査に早くから関わっていたベテランの元石川県職員さんで、埋文センターで長年発掘を手がけてこられた人でした。

鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (3)本丸へ向かう見学路(左側は後二ノ丸の空堀)
予定の集合時間には少し早く到着したのですが、公民館の職員さんは皆さん、気さくで陽気な人柄のようで、気安く歓迎していただき、当日の見学会は終始機嫌よく楽しむことができました。見学会を実施して頂いたスタッフの皆様、ありがとうございました。

鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (4)本丸入口の枡形門
さて、山城の話に入りたいと思いますが、鳥越城や二曲城は前述のように、戦国時代末頃に越前を再制覇した信長の軍勢が、勢いに乗じて加賀に侵攻し、一揆勢力を根絶やしにするため、尾山御坊をはじめとして、一揆らの拠る加賀の各地を攻撃したときの一揆側勢力の拠点となった山城です。

鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (5)本丸曲輪の前部に張出して作られた枡形門の土塁石垣
鳥越城は元能美郡(現白山市)鳥越村三坂、別宮に所在する山城で、標高312m(比高差約130m)の山頂部一帯に展開しています。東に手取川、西には大日川にはさまれた峡谷の先端部に位置し、三坂峠を越えると西に向かって小松平野に出ることができ、南には手取川上流に沿って越前国大野郡へ抜ける街道、あるいは瀬戸集落で東に分かれて美濃へ通じる街道が分岐し、これらの交通の要衝にあって、中世~戦国時代を通じて重要な位置を占めていました。

鳥越城跡現地見学会2017年10月28日 (6)本丸南東隅にある望楼跡と櫓門(手前は首切り谷と石垣)
鳥越を取り巻く周辺一帯は白山山麓地帯で加賀禅定道として繁栄し、多くの修験者たちの往来する地域でした。
室町時代には結城氏が河内荘を本拠地として支配を強めていきましたが、戦国時代には一向一揆が勢力を広げ、ついに守護の富樫氏を滅ぼして加賀一国を支配するまでになります。<この項続く>

越前古窯博物館見学記

博物館リーフレット越前古窯博物館発行リーフレット
平成29年11月5日(日)午前10時過ぎに越前町の古窯博物館を訪ねました。かねてから新聞などで報道されていて、先月29日に本格オープンとなりました。

博物館パンフ越前古窯博物館発行パンフ
この古窯博物館が出来る前は福井県陶芸館があって、越前焼に関する公開展示が行われていました。越前焼は日本を代表する六古窯の一つで、中世以来、日本海側の主要港町を介して北陸、東北、北海道の各地に運ばれ、甕、壺、すり鉢を始め、様々な日常生活品として多くの都市や村々で使用されていました。

編集_IMG_20171107_0001_NEW福井新聞10月26日付けの記事
編集_越前古窯博物館見学について2017年11月5日 003越前古窯博物館遠景(南から)
そうした越前焼の焼き物の歴史や製品の数々を陶芸館で展示、紹介してきましたが、越前焼の研究と普及活動に貢献のあった水野九右衛門さんの死去に伴い、一万点にも及ぶ多くの越前焼の蒐集品が県に寄贈されたことがきっかけとなり、水野さんの人となりを紹介、顕彰し、さらに寄贈された蒐集品を展示・活用するために、陶芸館の北隣の敷地に水野さんの自宅を解体移設し、その中を展示館として活用していこうという趣旨で、このほど新たに開館、オープンしたものです。

編集_越前古窯博物館見学について2017年11月5日 006水野家住宅正面
城歩きマンが現役の頃、越前焼の窯場を踏査したり、その発掘調査を見学したりして、何度か水野さんにもお目にかかったことがあります。親しく口をきいてもらったわけではありませんが、そのお人柄は上坂紀夫さんの『越前古窯の人―水野九右衛門』(宮崎村教育委員会発行)に書かれた通りで、口数少なく、黙々と研究に打ち込む昔タイプの研究者像そのままの人でした。

編集_越前古窯博物館見学について2017年11月5日 007資料館展示室
県立丹生高校で長いこと教鞭をとっておられたこともあって、その名前は広く知れわたっていて、城歩きマンが考古学に親しみ始めた頃にはもう越前焼研究の第一人者でした。日本六古窯や陶磁器研究の草分けとして知られる小山富士夫に師事して陶磁器の研究を一から始められた由、福井県の中世古窯史研究の道を確立された人としても尊敬に値する先達だと思われます。
城歩きマンも、その生き方を見習って精進したいと思います。

編集_越前古窯博物館見学について2017年11月5日 009水野氏研究室の風景
さて、古窯博物館ですが、約900坪にも達する広い屋敷地の中に水野家住宅と展示資料館、そして、これらに隣接して岡倉天心にちなんだ天心堂、天心庵が付設して建てられています。わが国近代美術の草分けとして、また福井出身の美術の大家として知られる岡倉天心にちなんだ数寄屋風建物が、この古窯博物館をひときわ趣き深い雰囲気に高める多役割をもたせてくれて、とても好感がもてました。

編集_越前古窯博物館見学について2017年11月5日 016天心堂内部の様子
展示資料館には、かつて城歩きマンたちが陶磁器の勉強をするのに、いろいろと見聞きしていた水野さんの蒐集品の一部が展示されていたり、実際に使用されたという研究のための自室がジオラマ復元されていたり、越前焼の現代陶器も紹介されていました。
編集_越前古窯博物館見学について2017年11月5日 017陶芸館の庭園(東から)
今後、水野さんのことを知ろうとする人たちのためには、こうした施設はもってこいの拠点になっていくだろうと確信がもてました。
博物館を出て、陶芸館の庭園がとても紅葉できれいだったので、しばらく庭内を散策してから、近くのそば屋さんでおろしそばをいただいて帰路につきました。