福井市坂下城に挑む

坂下城遠望坂下城遠望(曽万布町から)
3月21日午前、福井市坂下町の南側山頂にある坂下城に登城しました。
この山城は所在地や築城者がはっきりしないため、戸倉城とも長田城とも言われていました。福井の城館の所在や由来を著わした『越前国城跡考』では「戸倉城」とされていて、築城者は「柴田徳永」となっています。柴田徳永とは、柴田勝家の家臣の一人です。

柴田勝家が朝倉氏滅亡後、一向一揆と戦うため越前に派遣されてから、天正11年秀吉と賤ヶ岳の戦いで敗れるまでの間に家臣の徳永なるものが「越前国藤島郷小畑村ヨリ八町南之山 戸倉城主」として「柴田勝家公始末記」の系図中に添え書きが見られます。
この戸倉城跡は、所在地からすれば明らかに坂下町に含まれます。名称がいろいろあるのは致し方ないことで、今これの白黒をはっきりさせる材料はありません。『日本城郭全集』(1968年刊)では「坂下城」として紹介していて、築城者はやはり柴田徳永となっています。

さて、今回なぜ、城歩きマンがこの山城に登城したか、ということですが、ひとことで言って、坂下城は本当に所在するのか、ということをそれこそ、白黒付けたかったからでした。
主客部南側斜面石垣主郭部南側斜面石垣
この山城は坂下町の東方約600mの山頂(標高180.2m)に位置していて、主郭部の規模は南北方向に約150m、東西に約100mの規模を有します。北側と東側は急崖となっていて、そのまま天然の要害をなしています。城歩きマンは現在墓地公園が造成されている西側の緩斜面から登ったのですが、主郭に辿りつく間には古墳の存在以外は明確な堀切や段曲輪などはありませんでした。

しかし、山頂の主郭部に着いてから、ビックリ、驚きでした。主軸は少し北西方向にずれていますが概ね南北方向に長い矩形の平坦部があり、西辺部に土塁かと思われる高まりをもって整形され、南側には高さ約3mほどの土台(おそらく櫓台)が据えられているではありませんか!
そしてもっと驚きは、西側から登ったので分からなかったのですが、南側斜面に櫓台を囲うように高低差のある土塁を円弧状に作り出し、その下位には2段に亘って明快な深い堀切が切られているではありませんか。
しかも、そのいずれの斜面にも凝灰岩に似た石で石垣が積まれているのです。土や草が覆いかぶさって明確ではありませんが・・・。

岩塊が露出しただけかな、と思いましたが、写真を見てもお分かりのとおり、石垣です。
また主郭部西側下では横堀と考えられる浅い堀が巡っているのが確認されます。ことほど左様にこの山城は、机上でアレコレ文献を見て悩んでいましたが、登ってみて、それらの疑問はすっかり雲散霧消。

ということで、城歩きマンはこの坂下城が柴田徳永が築いたか否かは別にしても、戦国時代末頃の陣城もしくは砦的な城として築かれたのは間違いない、と確信しました。坂下城は、中世以来の志比から勝山方面へ向う山手側の脇往還の入口にあたるところで、足羽庄と藤島庄との境界付近にも位置していて、交通の要でもあったと思います。

山城に石垣を有する城跡が新たに見つかった、というお話でした。
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