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国境の城と旧北陸道

細呂木関所跡旧金津町細呂木にある関所跡
3月22日(金)勝山市伊地知鷲ヶ岳城の登城口を確認した後に、あわら市(旧金津町)の細呂木関所跡や旧北陸道を久方ぶりに見学してきました。

越前は国境の城はあまり発達しませんでした。なにせ、北陸の雄と恐れられた戦国大名朝倉氏のお膝元ですから、国境を越えて侵攻してきたのは一向一揆だけでした。そして、刀根坂の合戦でほぼ雌雄を決していた越前に、朝倉氏を殲滅させるために織田方の勢力がなだれをうって侵攻してきたのは天正元年(1573)のことでした。

実際それまで越前は他国の勢力から侵略を受けたことはありませんでした。そのせいか、国境を固めるための城もありません。京都方面の入口として敦賀の金ヶ崎城、加賀との国境である細呂木関所はよく知られていますが、それ以外は国境の城というのはなく、城歩きマンもよく知りません。

本当はどうだったのか、これからよく調べ直さないといけないのですが、それはさておき、今回、時間があったので、金津の北にある旧北陸道を車でゆっくり歩きなおしました。

お国境名号石碑お国境名号石碑
細呂木関所跡の北、バス停、保育園を抜けて北に進むと旧北陸道に入れます。のこぎり坂の碑があるところから道は急にせまくなり、さらに未舗装の砂利道となっていきます。

加賀との国境まで1.3㎞が金津町時代に町史跡として指定され、保存されています。そのせいか、江戸時代的な風情が良く残っていて、これは車で通り過ぎるのではなく、ゆっくりと周りを鑑賞しながら歩くべきだと思いました。

ちなみに細呂木関所跡の西側の丘陵高台には細呂木館跡があって、戦国時代には堀江氏一族の細呂木氏が居館を構えていました。永正の一揆の後、朝倉氏がこの関を閉鎖したため、北方との往来が滞って困窮したことが「大乗院寺社雑事記」等に出てきます。
そして江戸時代初期には多賀谷氏が越前北方の抑えとして、細呂木南方の柿原に居館を構えたので、その後の動向は不明ですが、高台には今も方形に土塁をめぐらせ、西側斜面にも空堀や土塁が構えられており、遺存度は良好です。
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