福井市大年町「大年高城(おおとしたかじょう)」

大年高城(主郭部)から鷹巣城を臨む大年高城から鷹巣城を臨む
福井県には現在、その存在が知られていながら、実体がなく、まったく知見に登らない山城がたくさんあります。
タイトルに掲げた福井市の大年高城もその一つです。
福井県内の城跡を記した『越前国城跡考』には細川越中守を城主として、「大年村ヨリ六町計南方山上ニ二十間計四方方堀切形有之」としています。また『日本城郭全集 福井県』の「大歳高城」では『城跡考』の記述を紹介しながら、細川越中守は南北朝期の斯波氏家臣細川出羽守であろうとし、その城跡については大黒丸城の斯波高経を援護するために築城し、南朝方の三国湊城の脇屋義助、また鷹巣城にいた畑時能の進出を牽制していた、といいます。
その他の関連書物にも、「大年高城」は紹介はされるのですが、どんな形状で、どんな規模の山城か具体的なことはほとんど書かれていません。『城跡考』で「20間四方の堀切あり」としているだけです。

『城跡考』で「時代不知」とされる城跡については、地元にも伝承などが残っていなくて、分からなくなっているということでしょうから、ある意味、詳細は不明、でも致しかたないのですが、南北朝期の細川出羽守が築城し、南朝方を牽制するために立て籠もっていた、ということまで分かっていながら城跡について、その詳細を現地踏査しないのは識者の怠慢としか言いようがありません。
もっとも、『日本城郭全集』やその後に発刊された『福井県の地名』平凡社刊でも「大年高城」については、「馬かくし」(?)が残る、とだけ記し、他には何もない、としています。
主郭部大堀切主郭部大堀切(北から)

本当にそうでしょうか?城跡としての遺構は何もないのでしょうか。
この疑問に自分で答えるべく、大年高城がある、とされる山に登ってきました。4月1日(月)です。
そして、三方から尾根が集まる標高270m余の山頂部の北、東、南側三方の尾根を、堀切で断ち切り防御性の極めて高い山城を築いていたことが分かりました。
特に北側の堀切は幅がおよそ10m、深さ5mにも達しようかという、規模の大きな堀切です。また東側は二重堀切の構造になっています。
主郭部は南北に長い平坦地をつくり、特に土塁や櫓台を築いたような形跡は見られませんでした。あえて形容すれば、切岸や、土塁、また虎口などの構造をもたない、古式の山城だという印象を受けましたが、これほどはっきりした堀切で囲われた主郭部をもつ大年高城が、いままで、何もないとされてきたことに疑問の念を抱かざるを得ません。
主郭部東二重堀切主郭部東側二重堀切

山頂部からは北西方向に鷹巣城がはっきりと見渡せ、北東側には坂井平野が一望に見通せます。『日本城郭全集』の著者が言う通り、三国湊城、鷹巣城を睨んだ位置にこの城が築かれたこともなるほどと頷けます。
願わくば、もしこのブログをご覧になった地元の方がいらっしゃいましたらぜひお願いしたいのですが、このままでは全く勿体ない遺跡だと思います。なんとか見学道路を整備し、一般の人が気軽に登れるよう、ご尽力いただけると有り難いのですが・・・。

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