国境の城、イラカ嵩城(瓦島城)と大内峠

山竹田からイラカ嵩城跡方面を臨む山竹田からイラカ嵩城跡方面を臨む
4月4日(木)城歩きマンは、加賀国(今は石川県境)との境界にあるという大内峠越を訪ねました。この北側にもやはり加賀国との境界の風谷峠がありますが、こちらは近世に入って開かれた、と言います。
城歩きマンが訪ねた大内峠のほうはかなり古くからの峠道で、戦国時代には加賀の一向一揆がこの峠道を通って豊原寺に侵入したと言われています。

また近世に入ってからも山代、山中への最短路の一つとして、人馬が行きかう大道であったと言われています。
この大内峠から北の分水嶺に沿った標高545.6mのところに、イラカ嵩城跡が築かれていると言われています。山竹田村から12,3町北の山上にあり、『越藩拾遺録』では木曾義仲が築いた陣城だとも言います。

およそ越前で本格的に国境の城として築かれている山城は、ここだけではないか…、とさえ思われるのですが、如何せん実態がはっきりせず、どんな山城かは全く分かっていません。

この山城の裾を通っている大内峠を見てきました。昭和58年に廃村となった大内村の跡も見てきました。
大内峠トンネル(竹田側から)大内峠トンネル(竹田側から)
今もきれいに保存されている峠道を確認しました。春先でしたので、草もそんなに生い茂っている風でもないので、割とこぎれいに見えましたが、夏はきっと草茫々でどこが峠か分からないと思います。

大内峠(旧道)石川県側から大内峠(旧道)石川県側から)
先日の細呂木関所の他には、恐らくこの大内峠が頻繁に使用された、もうひとつの街道だったのではないか、と思われます。ですから、木曾義仲が築いたからどう、というよりも中世~戦国時代を通じて、いや近世に入っても山中から竹田へは荷物の運搬が恒常的に行われ、山竹田には口留番所が置かれたという重要な交通の要衝を確保するために城が必要であったと思われます。
出入りを監視する要害の城があって当然の場所でしょう。近いうち、城歩きマンはこの山城にも挑戦したいと思っています。
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