福井市川西地区の歴史と考古学

福井市川西地区で3月24日に講演をすることになりました。テーマは大きく振りかぶりすぎて、かえってピンとこないか?「川西地区の歴史と考古学」です。
川西地区総合開発促進協議会からの依頼で、旧川西町域の歴史について、分かりやすく解説してほしい、ということでした。筆者はもう随分前から、この川西地区には興味があり、ずっと注目していました。
それは、福井でも敦賀や武生の府中、また坂井市坪江・長畝の丸岡町北東部地区などと同じように、古代から比較的早くに開発され、中世、戦国時代を通じて歴史の表舞台となった重要な場所だからです。
例えば、最近国指定史跡となった免鳥町の免鳥長山古墳をはじめ、三里浜砂丘のバックマーシュとその縁辺に形成された縄文時代の遺跡、丹生山地北縁部の丘陵末端部や独立丘上に点在する後期群集墳、そして中世の鷹巣城、朝倉山城、佐野館跡、三宅黒丸城、龍興寺跡、法土寺遺跡等々が知られ、古代には高串庄、中世には棗庄が形成されていた土地柄なのです。
最も興味深いのは、鎌倉時代になって設置された守護が、当初は国司と交互に任命され、越前に派遣されましたが守護として越前に入部した後藤氏は代々、三宅黒丸城に居城した、ということ。また近世の資料である『越前国城跡考』には戦国大名の祖である黒丸朝倉氏がこの三宅黒丸城に居城した、と記していること。これを裏付けるかのように九頭竜川を挟んで東側の旧坂井町・春江町域には朝倉氏関連の館跡が点々と残されています。
極めつけは貞治5年(1366)に足利幕府より朝倉氏に対して、7か所の地頭職を宛行われたことで、このうち坂南本郷、棗庄、木部島は川西地区と春江地区に属しています。残る4か所はいずれも福井市足羽地区です。朝倉氏は南北朝期以後、こうした地域を中心にその勢力を伸ばしていきます。
しかし松原信之氏は三宅黒丸城と朝倉氏の関係を否定し、朝倉氏の居城ではなかったと結論付けました。36年ほど前のことです。一乗谷に朝倉氏が拠点を移す前はどこにいたか、という問題をめぐって松原氏が従来より三宅黒丸城が戦国大名朝倉氏の前身といわれているが文献的な根拠はない、と言い足羽黒丸城が妥当だとして福井市郡黒丸町を比定しました。果たしてこの考えは的を得ているでしょうか?
状況からみて、川西地区の三宅黒丸城のほうが故地とするにふさわしい場所と思われます。郡黒丸周辺は地の利を指摘しているのみで、城跡はおろか、拠点であったする状況証拠的なものは何一つ見つかっていません。そして、前述の『越前国城跡考』では9尺四方の「城台」と石垣が残っていると記すのみです。考古学的に直接発掘できれば最もはっきりするのですが、簡単には実現できません。もう少し下調べが必要だとも思います。
今回、川西地区での講演を引き受けるにあたっては、こうした問題意識が筆者の脳裏にかすかにあったことを告白します。
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