越前一揆と一揆の城について

西光寺城下見勝山市西光寺城(東より)
4月24日(水)今日は朝から荒れ模様の雨風が強く吹いています。
昨日、勝山市三室山城を見学しておいてよかった。安心して休養の一日となりました。昨日のブログで書けなかったことを少し綴ってみようかと思います。

写真の西光寺城は1昨年の10月に若越城の会の秋の見学会で登城したときのものです。登り口に大きな看板が建てられていて、すぐ見分けることができました。

三室山城と同じ島田将監が築いた山城で、保田集落と西光寺集落の間の標高226mの丘陵頂部にあります。主郭部の長さは約80mほどで、南側に堀切があります。また、主郭部のまわりは畝状竪堀が約50条も取り巻いています。

越前では一乗谷城、波多野城に次いで多く見られる山城です。

村岡山城より恐竜博物館を臨む村岡山城より勝山市街地を臨む
ついで、同じ勝山市の畝状竪堀をもつ山城を紹介します。勝山市街地の西方にある村岡山(むろこやま)の山頂に位置する山城で、朝倉氏の滅亡後、平泉寺勢力と結んだ朝倉景鏡と対峙するため、天正2年、一揆勢がこの城を築いて立て籠もりました。景鏡はこのとき一揆の別働隊に平泉寺に攻め込まれて敗走したという話はよく知られています。

その後信長が越前に侵攻し、その家臣の柴田勝家らが越前・加賀一揆を攻めるため、村岡山城や谷城に居城し、一揆勢と戦ったことが知られています。

村岡山城本丸・堀村岡山城主郭・堀
村岡山城は一揆勢と柴田氏の両方が関わった城ということになりますが、元の連郭式山城を修築し、主郭や二の郭など主要部には堀、土塁をめぐらし、堀切は深く、斜面は切岸としています。また、東側には一揆か柴田かどちらの所産かは分かりませんが、畝状竪堀が計17条前後刻まれていて、主郭西側の尾根には3重堀切も見られます。

このように、勝山では天正初年から7、8年までの間に一揆勢や織豊勢によっていくつもの山城が築かれ、それらの城には畝状竪堀をもつものが少なくありません。
これは、越前においてはこの時期の、おおきな特徴とみてよいと思います。
スポンサーサイト

COMMENT 0