戦国大名浅井氏の小谷城を踏破

小谷城遠望(北から)003
思うところがあって、9月6日(金)湖北の浅井氏の小谷城を登城しました。
この山城も昔々の20年も前に、安土城考古博物館もできていないような昔に登ったきりで、すっかり遺構のことを思い出せない状態だったこともあって、もう一度登って確認しておきたいことがありました。

大嶽城・資料館遠望010
木本インターをおりて、国道365号を南下すると小谷城戦国歴史資料館が見えてきます。その奥には標高495mにも達する小谷山の大嶽城が聳え立っており、浅井氏の居城小谷城に到着です。

月所丸説明板062
今回は、この大嶽城に通じる搦め手筋の、月所丸という曲輪(越前に通じる忍道にあり、大嶽城と同じく、越前朝倉氏が浅井氏の救援のために築いた、と言われる曲輪です)の北西方向に施された「畝堀」がどのようなものか、確認するのが目的でした。

曲輪の手前にある説明板(写真)には左上に畝堀の絵が描かれています。畝堀とは別名「堀障子」といい、障子の桟の様に方形に畝状に掘り窪めた遺構をさします。典型的な例は小田原城や山中城のものがあります。

畝状竪堀065
しかし、説明板の絵と実際は違うのではないかと思われます。説明板は「畝堀」ですが、実際は「畝状連続竪堀」です。ここのところがややこしいので、理解しにくいのですが、「畝堀」というよりも「一乗谷城」でもお馴染みの「畝状連続竪堀」としたほうがよいと思うのです。

幅5,6mほどの腰曲輪をつぶして、その上に盛り上げるのを基本とした畝状竪堀が築かれています。合計8条になります。これに似た例は一乗谷城の千畳敷北側の二段にわたる畝状竪堀や、富山県枡形城、岐阜県広瀬城などに見られます。

どこかの書物に、これをもって朝倉氏が築いた曲輪である、という論説がありますが、どうでしょうか。一考を要するものと思われます。今後もっともっと現状の観察を続ける必要があります。議論が必要な所以です。

本丸036
そんなことを考えながら本丸まで下りてきましたら、2組のペアの見学客が献花台を立てて、お参りしているところに遭遇しました。四国の愛媛県からはるばると車でやってきたとのことでした。
城歩きマンよりも年配のように見受けられましたが、なかなかお元気の様子で、ワイワイ、賑やかに登城を楽しんでいるように思われ、心が和みました。
紅葉シーズンにもう一度来ようかな、と思った城歩きマンでした。
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COMMENT 2

midorishako  2013, 09. 08 [Sun] 08:15

朝倉氏が浅井氏の城を造る

難しいですね。草ぼうぼう、木がいっぱいの現場を見て、「畝堀」なのか「畝状連続竪堀」なのかを判断できるというのはすごいですね。というか、midorishakoには、どんなものなのか、今ひとつピンときていないのですが。
朝倉氏が築いたという一つの証拠になるということですね。それにしても越前からはるばる近江まで支援に来るということは、けっこう浅井と朝倉は仲がよかったのですね。

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城歩きマン  2013, 09. 08 [Sun] 16:54

細かいことですみません(畝堀と畝状竪堀のちがいは?)

midorishakoさん、コメントありがとうございます。
山城の写真は、写真にならないので、それで説明するのも無茶な話です!?

要は現地の説明板の「畝堀」の絵が、適切かどうかという話です。細かいことで恐縮です。

大嶽城や金吾丸、そしてこの「月所丸」など、朝倉氏の所作に関わる城跡、曲輪遺構なので、どうしても興味がわきます。今度ぜひ現地で話がしたいですね。

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