城歩きの思い出アレコレ(その1)

砺波市の増山城跡の下見を兼ねて、魚津市の枡形城跡を踏査しました。畝状連続竪堀をもつ山城へ登るのは、昨年11月に若越城の会の研修旅行で登った新潟県南魚沼市の荒戸城跡以来です。
畝状連続竪堀、といえば、やはり「一乗谷城」でしょう。数の多さでどこそこが1番か、2番か、といった話はズウーッと遠くへ置いておいて、畝状竪堀が山城に施されたことの意味をこの数年間、それこそズーッと考えてきました。いや、正確に言えば、昔にもこのことを考えて、文章を公にしたこともありました。そして、一乗谷城が戦国大名朝倉氏の居城だったので、畝状竪堀も朝倉氏が施したものだと、てっきりそう思い込んでいました。先学の論調もそのようでしたので、筆者も信じていましたが、じつは、最近になって、そうではないのではないか、と思い始めています。
城跡というものは、山城ももちろんですが、記録に出てくる草創期のころから、造られなくなる「元和」のころまで、実に何百年もの間、「つわものどもが夢のあと」だったわけで何度も造りかえられた結果が残っているものです。もちろん程度の差はあると思いますが。
従って一度きりのもので、それ以後使われなかった、という確証のある城跡はそれこそ「記念碑」ものです。
一乗谷城も当然、朝倉氏の初代の城主はもちろん、最後の城主義景の所作かどうかさえ詳らかではありません。そうしてみていると、卑近な例の能登畠山氏の七尾城、越後上杉氏の春日山城、北近江の浅井氏の小谷城、六角氏の観音寺城、はたまた関東地方の各戦国大名の詰城(拠点)にも、じつは畝状竪堀は施されておりません。西日本の場合もおおむねこの状態が多い。確認できるのは、守護代クラスやそれ以下の大小の城が、それこそ様々な場所で、いろいろな戦いの舞台で各山城にこの畝状竪堀が使われているのであって、誰それの大名が使い始めた、誰それの大名が取り入れた、とか言った類のものではないのです。そしてまた、誰それの大名の築いた城に多く用いられている、といった議論も最近、あまり意味をもつものとは言えなくなりました。
もう少し話を煮詰めていきたいのですが・・・。少し息が切れてきました。ここらで一休みといたします。
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