朝倉氏の一乗谷入城について

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11月10日(日)文房具を買いに、近くのショッピングストアーに行きました。
本屋さんも一緒に並んでいるので、ついでに立ち寄って、最近なにか新しい本でも出ていないかな、と物色していたら、写真の本に出合いました。

パッと見た目、新聞の取材記事を本にしたものだなと思いましたが、実際そのようでした。
中を読んだら、日刊県民福井に昨年の5月から連載された記事を集めて本にした、ということでした。

黒丸城kuromaru01
100項目余りにも及ぶ一乗谷朝倉氏の取材記事を、丹念に書き続けられてきちんとまとめられたもので、たいへん読みやすく、便利な入門書、紹介本としてはよくできているなと感心しました。

さっそく読み始めましたが、のっけから引っかかってしまいました。
序章2のところで、朝倉氏が南北朝のころに越前に入り、斯波氏とともに戦ったが、応仁・文明の乱を契機に一乗谷に移って本格的に城下町をつくった、という従来の考え方をやめて、もっと早い時期に一乗谷に移っていた、という説を唱えていると言います。
著者の吉川さんは、朝倉氏の研究では第1人者の松原信之さんに取材して、近年、「朝倉始末記」の内容を覆す「新事実」が見つかったと言い、黒丸朝倉氏2代目の高景の時に早々と一乗谷に入っていた、と断言してもよいと言います。

編集_宿直から福井平野を俯瞰する039一乗谷城・宿直跡から足羽平野を臨む

城歩きマンは去年の3月19日のブログで川西地区での講演会によせて、三宅黒丸と足羽黒丸の関係や、松原さんの考え方を紹介しました。
そのときは、朝倉孝景が応仁・文明の乱のあと一乗谷に拠点を移したのは、三宅黒丸城からではなく、足羽黒丸城からだ、というものでした。なぜなら、三宅黒丸について記した文書がほとんど確認されていないからだということでした。

今回、吉川さんの出された本では、松原さんの考え方はさらに進んでいて、2代目高景の時に一乗谷に移っていた、と発言されているように受け取れました。
根拠の一つに、2代目高景が貞治5年(1471)に戦功の恩賞として越前国七ヶ所の地頭職を幕府から宛行われ、その一つに宇坂庄があったのはよく知られていますが、その宇坂庄に一乗谷が含まれていて、高景は地の利を気に入り拠点を移した、というのです。

松原さんが相当自信をもってこの話を記者に語ったというのですが、冒頭でふれたように「新事実」が見つかってこのような発言になったと聞こえます。城歩きマンは勉強不足で、その「新事実」とは何か知りません。どなたか、知っている方は教えてください。
この話は一乗谷城の成立と深くかかわっています。おろそかにはできないですね。
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