加賀一向一揆と朝倉氏の戦いについて

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富樫館跡の話が出たついでに、朝倉氏と加賀一向一揆との戦いに関する話題をいくつかご紹介しましょう。

先ず富樫関連ですが、長享元年(1487)室町幕府の将軍足利義尚は所領の処分について、六角高頼と不仲になり、これを討伐するため近江に兵を出しますが、この時幕府の奉公衆を中心に参陣の命が下り、富樫政親もこれに加わるため、近江坂本に布陣しました。

この時の庄・郷への賦役負担を不満とする百姓らにより、翌長享2年に一向一揆が勃発します。政親は館から2㎞東南の高尾城(標高約170m)に立て篭もって一揆と対峙しますが、この時幕府は朝倉貞景らに救援を要請します。

朝倉貞景は堀江景用らを派遣して加勢しますが、利あらず3万余の一揆勢に攻め立てられ、政親の高尾城は落城し自らは討死してしまいます。

朝倉勢の国外への出兵で、加賀国へ深く入り込んだのはこの時が一番遠い地点にあたり、その後は加賀・越前の一向一揆との戦いにおいて、宗滴を総大将とする軍勢が幾度も国境を越えて加賀に侵攻しますが、せいぜい手取川以南から大聖寺周辺までです。

ふたつめの話題ですが、源平争乱の寿永2年(1183)、木曽義仲に従って燧ヶ城の戦いで活躍した武将のなかに、富樫入道仏誓とともに林六郎太夫光明の名が見えます。

この林氏とは加賀斎藤系武士団林氏で林(拝師)郷を根拠地として田畑の開発に成功し、以後土着化した豪族です。越前でも加賀国住人として林氏の名が知られていますが、実は越前の藤島庄内に「林城」があって、もっぱら林六郎太夫光明の館跡であろうとされています。

藤島庄のなかに加賀国住人の林氏の居館が存在するのは何故か、実のところその理由はよく分かっていません。

次の機会には大聖寺周辺の城館について触れることにしましょう。
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COMMENT 2

midorishako  2013, 12. 10 [Tue] 22:12

浄土真宗高田派と本願寺派

一向一揆の話はおもしろいですね。
富樫氏の一揆で私が知っているのは、浄土真宗の高田派と本願寺派の争いが関係していたことです。富樫政親には本願寺派、弟の幸千代には高田派がついて争いが起り、政親が勝つそうです。でもその後に、おそらくこのブログでいわれているような理由で、こんどは政親を本願寺派が襲い、政親を自害させてしまうというものです。(「東海の蓮如さん」本願寺名古屋別院)蓮如が、高田派の信慧(しんね)との約束(東を高田派、西を本願寺派)を守らずに、高田派の「領域」を侵し、次々に本願寺派の「領域」としてしまったために、高田派と本願寺派は、仲が悪かったようです。

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城歩きマン  2013, 12. 11 [Wed] 08:04

midorishakoさん、コメントありがとうございます。

一向一揆の話は北海道を除いて日本全国にあるもんだと思っていました。
しかし大間違いで、じつは北陸と三河と伊勢長島と、あとは大和の国一揆と呼ばれるものぐらいだと知りました。

一向宗が主役ですから、日本全国にあるわけがないのですが、なんとなくそんなイメージを持っていました。

midorisyakoさんの話を読むと、一向一揆も派閥争いに明け暮れた、教義とは関係ない部分の争いがあったんだと思い、本当に現実味が増してきますね。

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