越前斎藤氏と安戸の天城

編集_001二階堂城遠望(東から)東から越前市二階堂城・若須岳を望む
安戸の天城についていろいろ調べてみました。今まで、こういうことには無頓着でした。伝説や、言い伝えには信憑性がない、と端から見向きもしなかった自分を恥じております。

考古学を勉強してきて、今更ながら思うのですが、全く記録や伝承が残っていないところからさえも、発掘によって地下を掘り下げると新しい発見があって、歴史の追及に大変役立つことがあるのに、少しでも言い伝えや伝承が残っているところを調べるということは、実は前もって大きなヒントを与えてくれているんだ、ということになるでしょう。

今回、安戸の天城を調べていて、そのことを強く感じた次第です。

編集_DSCF2012越前市安戸町の兄子神社参道
伝承や言い伝えは、人間自体が語り伝えることですから、表現性や記録性に事実の誇張や歪曲がつきものです。がしかし、全くの根も葉もない虚偽の事項だと切り捨てることができないというのが伝承や伝説なんだと悟りました。

『福井県の地名』、角川の『地名大辞典 福井県』や、昭和53年に刊行された『白山村誌』などをチェックするうちにいろいろな歴史の脈絡が編み込まれているのが、この安戸の天城か…、と思うようになりました。

先に現地を踏査した二階堂町の城跡は斉藤吉信の居城だということ、安戸の天城はその出城という関係性。
天城山が阿倍比羅夫によって築かれた城跡だということはさておいても、鎌倉末の北条高時の息、国時がこの城に一時期隠れたという話、中津原町の徳泉寺がもとはこの天城山にあっただろうという伝承。

何よりも、古くから山干飯保として開発され、府中への街道として米ノ浦、糠浦から荷物の運搬に馬借街道が開かれていた事実、その荘園の監視塔の役目をもった天城山…。
この斉藤吉信は今立郡池田庄にある須波阿須疑神社の再興に一役かっているという話。吉信の息伊傳(これすけ)は越前斎藤氏の中興の祖。ここから疋田系と河合系の斉藤氏に分かれていきます。

地元二階堂町の小泉家は斉藤吉信の子孫といわれていますが、ここに伝わる話では、山干飯保の斉藤氏の一族(?)が美濃に移って、土岐氏のもとで守護代にまで成長した。そして、土岐氏の内部争いによって長井新九郎(のちの斉藤道三)が土岐氏を追い出したので、土岐頼芸は越前に逃れたとも、朝倉氏を頼ったとも言われています。

天文13年(1544)の朝倉氏の美濃出兵の記録が残っていますので、このあたりのことは信憑性が高いと思われます。土岐頼芸は、一時期、越前に逃れ二階堂町上野の城跡に立て籠ったのが上野城跡だとも言います。
上野城跡の東、堀町には斎藤吉信の家臣黒田氏の居城跡があり、堀が巡っていたのでその名がついたとも言います。
まだ天城山へは登城していませんが、このように天城山周辺はたくさんの歴史的な話題が詰まっていて期待は膨らむばかり。

現地踏査によって、何らかの痕跡が見つかれば言うことないのですが。近々、雪解けを待ってぜひ登城したいと思います。
編集_DSCF1985杉津SAより敦賀湾を望む
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