手取川合戦城跡と呉竹文庫

編集_DSCF2037石川県白山市湊町付近の手取川
平成26年2月19日(水)福井新聞講座で手取川の戦い(天正5年9月23日)を取り上げるため、現地の写真が要りようになり、冬の晴れ間を狙って石川県白山市(旧能美郡美川町)に出かけてきました。

天正5年(1578)織田方の柴田勝家の軍勢と上杉謙信の軍勢が、手取川を挟んで対峙した合戦場の跡を確認するため、合戦場跡地に推定される白山市湊町の川べりを歩いてきました。
「信長公記」には「賀州に乱入、湊川、手取川討越、小松村・本折村・阿多賀・富樫所々焼払在陣也」とあり、手取川河口付近は北の比良川水系と南の湊川の二流があったといわれ、平安・鎌倉期にはさらに北側の大慶寺川が本流となっていたこともあり、正確な合戦場跡地を知るには、今一つ資料性に欠ける憾みがあるものの、概ね湊町付近とみられているようです。

湊町保育園の東側川べりに「呉竹文庫」という白山市の施設があり、その駐車場の隅に「手取川合戦城跡遠望の地」と記した立派な石碑がありました。手取川にかかるJRの鉄橋から300mほど南のところでしょうか。
編集_DSCF2030手取川合戦城跡の石碑
合戦自体はもっと広範囲に手取川を挟んで行われたものと思われますが、当時のよすがを偲ぶにはとても落ち着いた、穏やかなところでした。
せっかくここまで来たのだから、と「呉竹文庫」という施設を観て帰ることにしました。
編集_DSCF2040「呉竹文庫」入口

城歩きマンはこの「呉竹文庫」のことを知りませんでした。どうやら、明治から大正・昭和にかけて日本海航路の北前船回漕業を営んでいた熊田源太郎氏の、店棚を兼ねた邸宅の跡地を資料館の展示室に改修した施設でした。
小ぢんまりとした瀟洒な造りのその建物は、とても魅力的でした。熊田氏が集めたという蔵書をもとに私設の図書館を建てて町民に開放した、という話もあって、地域文化に貢献したまちの名士だったようです。
編集_DSCF2038呉竹文庫遠望(東から)
手取川合戦城跡を観に行って、思わぬ収穫があり寒さも苦にならず、気分良く帰途についた城歩きマンでした。
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COMMENT 2

midorishako  2014, 02. 23 [Sun] 19:17

手取川はどっちから越えたか

手取り川の合戦を「信長公記」で見てみました。あまり詳しい記載はなく、柴田勝家他何人かの武将が攻め入ったことや秀吉が知らないうちに帰ってしまったことが書かれていました。しかし、ふしぎなことは、「賀州へ乱入、湊川・手取川打ち越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫の所々焼き払ひ、在陣なり。」のところで、敵の上杉は北の方に居たと思われるので、「手取川を打ち越え」て「焼き払う」とすれば、川より北の方を焼き払うと思われるのですが、川より北は富樫だけで、あとの小松、本折、阿多賀(安宅?)は川より南です。
いろいろ調べると、この合戦で織田軍は上杉軍に大敗を喫したようです。なので、「手取川を打ち越えて」は、北から南の方に越えて、上杉軍から逃げながら川より南の村を焼き払ったと考えたらよいのかなと思いました。

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城歩きマン  2014, 02. 24 [Mon] 10:20

midorishakoさん、いつもコメントありがとうございます。
ご指摘の手取川越えの件は、資料が少ないので、具体的な様子は想像するほかありませんね。

ただ、上杉勢が七尾城を落として、その勢いで南下して、大雨で川が増水し、足場が悪いところへ夜討ちをかけたので、柴田勢は泡を食って、混乱のうちに敗走した、というのがだいたいのストーリです。

しかし、上杉勢がいったん引き返してくれたので、柴田勢は大助かりだったのも事実です。歴史は実におもしろいですね。

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