観音寺城、安土城の石垣について(若越城の会学習会)

編集_観音寺城遠望2012_0427_124628-DSCF0703繖山(観音寺城)遠望、南から
平成26年2月23日(日)敦賀市プラザ萬象にて「若越城の会」の第2回学習会が実施されました。
タイトルは「観音寺城・安土城などの石垣について」、講師は滋賀県城郭調査事務所の松下浩さんでした。これは3月に現地で山城見学を観音寺城で実施する企画の予備学習会として行われたものです。

今回の城の会学習会の伏線に、滋賀県が行った観音寺城の石垣調査の成果報告会がありました。

滋賀県では国の史跡である観音寺城の整備・活用を図るために、基礎調査として石垣の調査を始めました。平成20年から4か年をかけて実施しましたが、その石垣の調査の成果を報告しようということで、平成24年4月に滋賀県立図書館で報告会が行われています。

そこで注目すべき内容が発表されました。ひとつは観音寺城が中世の山城として、極めて特異な、石垣を多用した山城であると言われている割には、その内容が今一つよく分からないということ。

二つめは名前にもあるように、観音正寺という中世寺院と山城とが混在していて、実際にはどんな構成を成しているのか、ということもはっきりしたことはよく分かっていなかったのです。

そこで平成20年から4年間城跡の石垣の悉皆調査を実施したところ、素晴らしい成果が得られたということで上記の報告が行われたわけです。
編集_観音正寺入口2012_0427_133259-DSCF0710観音正寺入口(東から)
まず最初にあげられることは、城跡に見られる石垣が一様ではなく、曲輪などの遺構の分布する場所によって積み方や、規模の違いがあるということが分かってきた、ということです。通常2,3mで垂直に積み上げられた石垣が主とみられていたものが、場所によっては5,6mを超える高さのものがあり、城跡の外郭に沿ってみられるのではないか、ということです。
二つめは、観音正寺の南側谷筋の後藤但馬守邸、進藤邸から下に降りる本谷、表坂が大手道と考えられ、城郭はこれを中心に三国丸をピークとする尾根筋から、東西に広がる構造の城郭であろうと言うイメージが掴めるようになったということです。
編集_平井丸虎口2012_0427_135030-DSCF0711平井丸虎口石垣
三つめには、観音正寺の寺域は創立時から城郭が築かれたころまでの間に場所を移動しているものと考えられるが、おおむね大土塁を区切りとして、現在の場所から東側、南側は後藤・進藤邸へ降りる谷の斜面一帯であろうということ。

こうした報告に加えて、今回の学習会では小谷城や安土城などと石垣の様子を比較しながら、戦国期城郭における石垣のあり方について、という観点で話が進められました。
編集_本丸食違い虎口2012_0427_143338-DSCF0721本丸の食違い虎口
そもそも石垣積みの専門集団、ということで近江では「穴太衆」が知られているが、確実なことは分かっていないそうで、観音寺城石垣をだれが積んだかははっきりとは分からない、ということです。文献的に何も記されていない、というのです。もっともです。石を加工する石工が各地にいて、彼らが石垣づくりに狩り出されたのではないか、という指摘は正論だと思います。

石垣の積み方についても、発展段階論的な解釈では分からないことが多い、といいます。単純なものから、より高度な技術、複雑な積み方に発展していった、という考え方も怪しい、といいます。講演した松下さんは観音寺城の石垣はそういうことを教えてくれる、極めて魅力的なものではないかと話していました。
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