京都・福知山城の踏査について

編集_IMG_0001_NEW福知山城のパンフ
平成26年3月2日(日)福知山市にある福知山城を踏査しました。
実は、当日福知山市民会館でガイドマップ「ガラシャ・光秀街道戦国物語」発刊記念フォーラムが開催されるということで、これに参加したいと思い福知山市を訪れたのですが、すぐ隣に明智光秀ゆかりの城跡がありましたので、登城することにしました。

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福知山市は京都の北部、丹波にあるひなびた情緒の漂う、静かな街です。福井市の自宅から測って約180㎞余の道程。最近、舞鶴・若狭自動車道が小浜まで開通していますので、北陸自動車道から27号線を通って、この高速道路で行けば約3時間で辿りつけます。自宅を朝8時に出発してちょうど午前11時には福知山に着きました。日曜日でしたが、道はそんなに混んではいませんでしたので、順調に時間通りに走ることができました。

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外はうすら寒い曇り空でしたが、観光客は引きも切らず、意外とにぎやかな見学行となりました。
福知山城は、中世に小笠原氏の後裔塩見大膳頼勝が、朝暉ヶ丘(あさひがおか)の丘陵に城郭を築いて立て籠ったのが最初といわれています。その後天正7年(1579)8月、丹後の大方を攻略していた明智光秀がこの地を平定し、ここに城代として家臣の藤木権兵衛、三宅弥平治(明智秀満)を置き、城も近世的城郭に改築しました。

天正10年6月、本能寺の変がおこり、光秀は山崎の合戦において秀吉に敗北し、小栗栖で土民により暗殺されてしまいます。その後丹波は秀吉の養子である秀勝、また一族の杉原家次が城主となり、当地を納めました。
秀吉没後、紆余曲折あって、その後当城に入ったのは有馬玄蕃頭豊氏で、最初6万石、のちに12万石に加増されて城下町の整備を実施しました。以後寛文9年(1669)以降は朽木氏が入部し、明治に至っています。

福知山城は、もと福知山盆地の中央に突出した細長い台地の末端にあり、展望の良くきく景勝の地です。東方は由良川と土師川が合流し、自然に外堀の役目を果たしています。さらに東・北・西の三方は断崖でまさに要害ともいうべき地です。
石垣はいわゆる「野面積」であり、大石を奥の部分で噛み合わせ、その裏に栗石を入れ、地下水が容易に流れ出るように施されています。

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外見は極めて粗雑で、幼稚な印象を受けますが、実際には崩れ難い堅固な造りでした。石垣には宝篋印塔や五輪塔の一部と思われる石が転用されていて、あまりの多さに少し違和感を覚えます。

本丸の西側に二ノ丸があり、三ノ丸にあたるところが伯耆丸です。ここには有馬豊氏の弟の伯耆守重頼の邸があった場所とされています。この伯耆丸と、二ノ丸、本丸はもともと連続していたが、豊氏の時代かそれ以前に堀を穿ち、橋を架けて通行できるようにした、といいます。

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天守閣は外から見ると三層、内側から見ると四層の建物で、本丸は東高西低の二段になっています。北側は続櫓、北端に小天守が並んでいます。現在、隅櫓のように見える建物は、城門の銅門(あかがねもん)の続櫓で、大正5年に「城址保存会」によって現在の地に移築されたものです。これは唯一現存する建築物で、風格があり、白い塗籠に格子窓をつけ、高い石垣の上に照り映える姿は古城の景観を偲ばせるに十分です。
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