安戸の天城ついに踏査!

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平成26年3月28日(金)天気晴朗。花粉が飛び交って呼吸が少しつらい感じですが、かねて下見をしていた越前市白山地区、菖蒲谷町の集落センター前の登山口から登城開始。
標高451.5m、比高差にして272mの上りです。

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最初は杉林の中を幅広い登山路にそって、ゆっくりと登って行きました。今日は気温も上がって、大変過ごしやすい日和です。きつい登りのところもあって、息が上がってくるので、休み休み上ることにしました。「頂上まであと1.5㎞」の案内板があって、ようやく尾根線に出たようです。周りが一気に開けて、明るくなり四方が見渡せるようになりました。

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県内の登山ガイドブック(『登ってみねの福井の山』福井山歩会)にも、この安戸の天城のことが紹介されていて、ここでは「天城(てんじょう)山」の名前で出ていました。登山路は麓の菖蒲谷地区壮年会の人たちによって平成18年に新しく整備されたようで、頂上まで、きれいな幅の広い道が続いていて、迷うことなく、快適に上ることができました。
しかし、城歩きマンの目的は単なる登山ではなく、伝承にあるような城跡が実際に残っているのかどうか、きっちり確認することでした。

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頂上で昼食を済ませた後、付近の様子を調べましたが、緩やかな起伏が周りを取り囲んではいるものの、城跡らしき遺構は確認できませんでした。
中世には山干飯(やまかれい)保という荘園に属していて、鎌倉時代末、北条高時の子どもの国時が鎌倉から逃れてこの地に隠れたといいます。
また『日本地名大辞典 福井県の地名』には安戸町の地名の由来について、7世紀頃に阿倍比羅夫が蝦夷征伐のためにこの地に至り、のちに安倍氏の一族が城を構えました。その後も一族の安野氏が移り住み、この「安野の家(戸)」が縮まって安戸になったと言います。

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天城山上には武将の石碑があり、「相模入道□鑑家臣、城□越前軍師季顕墓、建武元年八月二十四日来」と記されていて、明治年間にこの古い墓碑銘を写して再建立したというのですが、件の石碑はどこにあるのでしょうか。
どこか草むらにでもころがっているのかと思い、あちこちうろついてみました。案内板でも立ててあるとよかったのですが、城歩きマンにはやはり見つけることができませんでした。山頂からは敦賀湾が指呼の間にあり、春霞で煙ってはいましたが、さすがに雄大な眺めで、感動することしきり。

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展望用に南側斜面が伐採されていましたが、平成18年の整備の時点から約8年も経って、まわりの樹木が成長し、背丈が延びたせいか、木々の間から透かしてみる、といった感じでした。
この山頂部には「城ヶ平」「清水ヶ平」「大仏」「五大院屋敷」「桑原屋敷」などの小字名が残っているともいわれます。なるほど、周りには緩い起伏を伴う平坦地がいくつかあって、これがそうかな、と思いながら何枚か写真に収めました。しかし、中津原町の「徳泉寺」があったという伝承が重なっていて、小さな古碑が草むらの中に残っているという。

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城歩きマンにはその石碑の所在がわかりませんでしたが、白山地区の歴史を記している『白山村誌』には「仏供田、徳泉寺」、裏には「越後郡司季昭、加賀前司帥昭」と刻されているので、南北朝期にさかのぼらせた根拠を「季昭」を「季顕」にあて、「加賀前司帥昭」を「軍司照」と読んだものだろうと推定しています。
瓜生保の兄弟の輝と解釈し、年代を建武元年とつじつまを合わせ、「武将の碑」が建てられたというのです。「仏供田 徳泉寺」とは中津原町にある徳泉寺の仏供田の意味であり、寺伝には、「応仁二年(1468)朝倉左京徳泉という人物が加賀国一坪村からこの地に移って一宇を建立し、開山となった。はじめ天台宗であったが、蓮如に帰依して寛永2年(1625)に徳泉寺と改めた」といいます。

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かって南越前町(旧河野村)河野の矢良巣岳の中腹で「マンダラ寺」という山中寺院跡が発掘され、掘立柱建物2棟が見つかったことが分かっています。
平成元年度に福井県立博物館で発掘調査が行われ、その成果の概略が福井県埋文センターの報告会資料で紹介されています。この山中寺院は古代(奈良・平安時代)に建てられたものとされていますが、安戸の天城がもし徳泉寺の寺院跡であると考えると、時代は違いますが「マンダラ寺」とほとんど同じ条件の立地を示していて、とても示唆的です。
ただ、伝説に言うような中世の城跡の可能性は、現状を観察する限り、あまりないようです。

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意気込んで登城(踏査)したものの、問題の所在が寺院跡のほうへと広がってしまって、帰りの道すがら「困った、困った…」をブツブツつぶやきながらの下山になりました。
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COMMENT 2

midorishako  2014, 03. 30 [Sun] 22:17

何か見つかって欲しい

おもしろいですね。
はじめはお城の跡の立証だったのが、寺院の跡の立証に変化していく過程がわかって、とても興味深かったです。どちらにしても、何か見つかって欲しいですね。

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城歩きマン  2014, 03. 31 [Mon] 07:16

midorishakoさん、コメントありがとうございます。

山頂部や途中の尾根道で、目を凝らして地形を観察してみましたが、堀切や曲輪などの遺構は確認できませんでした。

時代が阿倍比羅夫や鎌倉時代と古いだけに、中世や戦国時代の感覚で城跡をみてはいけないのですが、いっその事発掘すれば、もっともっといろいろなことが分かると思います。

しかし、これは最後の手段。現地踏査をもっと続けていく必要があります。

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