越前町大谷寺城跡の踏査(その3)

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越前町大谷寺城跡についてお話します。
写真は主郭とみられる平坦地の遠景です。登山道が3方向から集まる地点から撮りました。分かりづらいですが、真正面の笹に覆われた部分が食い違い虎口部分の土塁の高まりです。

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この写真は反対側の北から見た虎口の堀の部分です。大半が登山道によって埋まり、かろうじて東側斜面で堀切跡が確認できます。

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この写真は城跡北側に寄った所にある4つ目の堀切です。搦め手を守る堀切とみられます。この堀切の奥に文字通り、「奥の院」が安置されている平坦地がありました。
幅も小さく、堀の深さもそんなに深いものではありませんが、斜面側にきっちりと切り落としているようです。ただ、登山道の整備のせいか、あたかも土橋状に通の部分を大きく埋めてあり、注意してみていないと見落とすような場所です。

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主郭部のすぐ北側の、一段高い部分にあるのが越知山大権現を祀る本地堂です。ここからはほぼ西の方向に、約5.5キロメートル離れた位置に越知神社(標高(612.8m)が位置しています。
本地堂の向かい側も平坦地となっており、城跡の中では一番広い空間地を形成しています。調査した教育委員会では、基壇状の高まりや溝が巡ることから、堂塔を含む寺院建物が存在していたのではないかと推測しています。

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登山道をさらに奥に進むと奥の院です。説明が前後になりますが、先ほどの北側堀切は奥の院と主郭部の平坦地との間にあります。

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奥の院は主郭部の平坦地からは約300mほど北西の位置にあり、ここからは四方が見渡せる、絶景の展望所となっています。

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さすがにここまで来ると、山城に類する遺構は皆無状態で、なだらかな尾根道が金毘羅山(標高347.4m)まで続いています。
大谷寺城跡は旧朝日町の調査報告書では「城郭遺構」ということで控えめな発言をしていますが、明確な山城遺構としてよいと思います。
中世越知神社の別当寺院大谷寺が、天台宗延暦寺末として隆盛を誇った頃、越前の豊原寺や平泉寺がそうであったように僧兵を抱える山岳寺院として、背後の丘陵に城郭を構え、地頭職の千秋氏からの横暴や朝倉氏らの圧力に対抗していたものと考えられます。
そして、クライマックスとして天正期の信長の越前侵攻があり、このときにも山城が使用されたものかと思われます。
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