『シンポジウム 織田信長と謎の清水山城』を読んで

清水山城跡主郭部清水山城主郭部礎石建物
5月26日の記事で清水山城館群の踏査について触れましたが、その後機会があって、清水山城に関する文献『シンポジウム織田信長と謎の清水山城』(サンライズ出版)を読み返してみました。不思議なもので、現地を見ないで文献を先に読んだのが、刊行された直後の平成14,5年頃でしたが、この時の読後の印象と今回の読後の印象はまるで違っており、今回のほうがはるかにビビッドに訴えるものがありました。
そして、この本の後半部分というか、第2部というか、基調報告のあとの各パネラーの討論の記録の中で、こんな場面がありました。司会役の松田常子さんが「清水山城の築城年代と改修の時期」について議題を絞り「政治的な動きも含めて、朝倉氏との関係ですが、畝状竪堀をもって朝倉氏の影響・支配をストレートに言っていいのかどうか、・・・」とパネラーに問いかけています。このシンポジウムには地元新旭町の教育委員会の職員さん、中世考古学、山城の研究者も参加していましたが、はっきりした回答は述べていませんでした。
このシンポジムで特に話題が集中したのは『信長公記』を含めて、文献記録に湖西でも1,2を争う規模の大きな山城である清水山城の名前が出てこないのは何故か?ということでした。近くの田中城や、打下城は登場するのになぜか清水山城だけはどの文書にも名前がない、というのです。これが「謎」の第1要因でした。滋賀県でもわずかしか確認されていない、畝状竪堀をもつ山城の性格について、そのはっきりした内容は、せっかく司会者が水を向けたのにも拘らず、うやむやで終わっていました。いま読み返してみて、このことがはっきりしてきました。
この本を読んでいない人は、筆者が話していることはチンプンカンプンかもしれないので、この話はここで終わりますが、要するに筆者が聴きたい内容は、畝状竪堀が朝倉氏と関係があるのかないのか、清水山城に畝状竪堀があるから、朝倉氏と関係があったかなかったか、ということです。ちょうど10年前のことです。朝倉氏と浅井氏が連合して織田信長と対抗した元亀・天正年間の戦いの話であり、畝状竪堀をめぐって、その性格をどこまで深めることができるか、期待をもって読み返しましたが、議論にはなっていませんでした。
唯、この時点の識者のなかには底流として朝倉氏が畝状竪堀を採り入れているので、畝状竪堀をもつ清水山城も朝倉氏と関係があった、と思っていただろうということがうすうす透けて見えました。しかし筆者はミクロに見ても、マクロに見ても畝状竪堀はどこそこの戦国大名が始めた築城技法ではないと思っています。
この点については、また機会を見て話しをするとしましょう。ご意見がある人はぜひコメントしてください。
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