大野市勝原城跡の踏査その3

編集_DSCF2484勝原城南端の堀切(北から)
さて、この勝原城は、少し前のこのブログでも何回か紹介しましたが、室町時代の武将で斯波義敏の家臣、二宮将監が依拠した城と言われています。

文明3年以降、朝倉氏は斯波氏や甲斐氏らと越前の覇権をかけて戦いましたが、文明7年朝倉氏が大野へ押し寄せてきたので、一旦は勝原城に立て籠もって戦おうとしました。しかし、場所的に不利と考えた将監は同年7月、亥山城(日吉神社境内)で朝倉勢を迎え撃ちました。

戦局利あらず敗色が濃厚になると、二宮将監は亥山城を出て、大野郡富田庄井野部、中野で合戦に臨み、朝倉氏の軍勢と戦い(最後は勝原城に立て籠もったとも…)討死したと言います。

編集_DSCF2485勝原城南端の切り立った尾根道
その後、江戸時代(正保元年・1644)には、美濃街道の入口に当たることから口留番所がおかれたと言います。
『福井県の地名』では「城の山に城跡があり、甲斐氏の家臣山路将監が居城したと言い、「勝原腹」(=腹切岩)という地名の由来は応仁の頃、唯野の戦いに敗れた将監が切腹したところからきているとしています。

同じ「将監」でも二宮と山路では意味する内容が全く違ってきます。このあたり、どのように解釈すればよいのか、迷ってしまいます。しかも、甲斐氏の家臣は別として、柴田勝家の家臣にも山路将監がいて、こちらは本名山路正国と言い、賤ヶ岳の戦いで加藤清正に討たれて戦死しています。

編集_DSCF2477勝原城北側尾根の中腹から勝原橋を望む
さらに『越前国城跡考』では、勝原城について「大野市西勝原字三曲にあり、室町時代の朝倉氏家臣林浄恵の居城跡である」と記述しています。朝倉氏の家臣を記した『一乗録』には見えない名前で、どのような武将か不明です。

城歩きマンが踏査した感想からすると、近世に入って設置されたという口留番所がどのようなものか気になるところですが、国道158号線の脇から入る南側の登り口は、途中切り立った崖の上を通る、大変に幅の狭い尾根道となっており、ここからのルートはまず考えられません。おそらく、西側裾の川沿いからの登城ルートがあったものと思われます。
口留番所も城跡の山頂部ではなしに、山の麓、村の入り口にあったとされています。

編集_DSCF2480勝原城主郭部北側段曲輪の土塁・石垣石
城跡自体は、山頂部に約20m四方の方形の平地があり、南側と東側に段曲輪、それを取り巻く腰曲輪が巡っていて、東側のキャンプ場へ降りる尾根筋に3~4段の段曲輪が見られます。

編集_DSCF2478勝原城北側段曲輪の階段石列
いずれの曲輪も斜面成形がなされ、きれいな切岸を作っています。山頂部と東側の段曲輪にはエッジに石垣列か、と思われる礫が並んでおり、またコーナー部分にも礫が寄せ集められていて、石垣のあった痕跡かと思われます。東側の一段下の曲輪には石列の階段も確認できました。

編集_DSCF2482勝原城主郭部下の虎口部の土塁石垣
極めつけは、主郭部の南側、一段下の段曲輪の南端部で石垣積みの虎口が確認されました。明瞭な食い違い虎口です。扁平な角礫を使い、2,3段に積み上げて左右に土塁を築いています。

虎口は主郭部南側の2段目の段曲輪に設置されています。周りが灌木で蔽われているので、全体の形状は分かりませんが、この虎口を含めて周りにも土塁が巡っていることが想像されます。
明瞭な堀切は1か所だけでしたが、築城時期は改修を受けていることも鑑みて、最終時期はやはり戦国末、としてよかろうと思います。もっと穿って、ここに口留番所の建物があった可能性も捨てきれませんが、これほどの堅固な防御を施す意味もなく、やはり天正年代の柴田勢が入ってきた時期の所産としたいと思います。

この柴田勢による新たな築城(改修)、と考えるなら、この場所に築いた理由が城歩きマンには何となく頷けるのです。柴田勝家以下、北国の守りに着いた織田の軍勢が第1に目標としたのは、上杉が背後で操っていた一向一揆との戦いであり、奥越、和泉村の一揆衆、また加賀の一揆衆との戦いに明け暮れた柴田勢がこの勝原城を、北谷の城や村岡山城ともども堅固に造り変えていたことは容易に想像できます。柴田の家臣であった山路将監がいた、という記録はありませんが、同じ名前でもあり、何らかの誤伝によるものかも知れず、それなら話がスムーズに通るのですが…。
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