堀名銀山と壇ヶ城

橘曙覧文学記念館
6月12日(木)福井県立図書館へ借りていた本を返しに行った後、折角だと思い、寄り道して福井市の橘曙覧(たちばなあけみ)文学記念館に行ってきました。
たまたま、この記念館で橘曙覧に因んだ堀名中清水の堀名銀山についての企画展示が行われていました。

橘曙覧については、昨今、アメリカのクリントン大統領が、天皇・皇后両陛下のアメリカ訪問に際して、歓迎の言葉の中で曙覧の歌を引用したことでとくに有名となりましたが、わが福井が生んだ幕末の歌人として従来からも広く知られています。
その曙覧が、万延元年(1860)3月に堀名銀山の取締出役として出張していた飛騨郡代官所役人富田礼彦に会うために、訪れています。

編集_勝山市北郷町付近2
富田礼彦とは、曙覧が飛騨高山の国学者田中大秋の門下生として、その地で学んだ時に知り合った同門の弟子で、高山に帰国する直前に銀山を訪れ、旧交を温めながらともに歌を詠んだといいます。

堀名銀山は、水無山の南麓、北郷町と隣り合う荒土町堀名中清水の山中にあります。写真の手前、左手が水無山、真ん中あたりの麓の集落が堀名中清水にあたります。一番奥の山並みはスキージャムのある法恩寺山、経ヶ岳の連山です。

この銀山として知られる堀名中清水には、「壇ヶ城」または「壇ノ城」ともいいますが、山城があった場所としても知られています。銀山はこの城跡の概ね東側一帯にあたり、幕末に本格的な採掘がおこなわれました。

貞享2年(1685)の「越前国絵図」には「銀山跡」と記されているそうで、江戸時代の初めころに、既に鉱山としての開発が行われていたことが分かります。

さらにこの堀名銀山のすぐ隣の檜曽谷には「北袋銀山」があって、秀吉の文禄2年(1593)の朱印状には「山中長俊」なる人物が代官として現地の支配と経営にあたっていたそうです。

壇ヶ城の名が登場するのは天正2年(1574)の一向一揆のときで、平泉寺の朝倉景鏡を討つため、一揆の大将杉浦、本覚寺らは細野道観兵衛、島田将監らが築いた城に拠ったといわれています(『福井県の地名』より)。
それ以前には、島田将監の父で、朝倉教景の家臣であった正保が永正年間の一揆との戦いで軍功を挙げ、この地を与えられて城を築いたと言います。

したがって壇ヶ城は戦国時代の16世紀中頃にはすでに築かれていたことが分かりますが、銀山との関係はなかったのでしょうか。たまたま偶然、重なっているだけでしょうか?そんなことはない、と思うのですが・・・。
昔の文献には、このあたりのことは何も書かれていませんし、文書も残っていません。ちなみに水無山は江戸時代には銀、鉛、銅の産出地として知られ、幾度か採掘がおこなわれたそうです。
今後もこのあたりのことを調べていきたいと思います。
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COMMENT 2

midorishako  2014, 06. 16 [Mon] 07:46

鉱山経営は戦国武士の経済力の源

おもしろいです。
銀山と地域武士との関係。私は、絶対関係があると思います。島田氏がおそらく自分の経済力の源の一つとして銀山を開発、経営していたのではないかと思います。
三河にも似たようなことがありました。西尾市の荒川義広氏の八ツ面城の近くに八面山というのがあり、古来雲母の山地だったのです。城と山が目と鼻の先なので、おそらく荒川氏が開発経営していたのではないかと考えています。

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城歩きマン  2014, 06. 17 [Tue] 07:47

midorishakoさん、コメントありがとうございます。

銀山と山城。この関係は確かに戦国武将、大名、幕府等の利害が大きく絡む事柄だったでしょう。血みどろの争奪合戦…。歴史の表には出てこない事柄。

山城の立地、存在の意味はそんなところにもあるのでしょうね。山城は防御のための施設、軍事的なモニュメントにすぎませんが、しかし、軍事面だけで語れない、他の何かがあるのですね。

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