富山城の発掘調査とその成果について

富山城古図越中国富山古城之図「射水市新湊博物館 企画展図録」より
平成26年6月15日(日)富山市の市民プラザに行ってきました。

越中史壇会の平成26年度総会を兼ねた研究発表会があって、富山市埋文センター所長の古川知明さんが、近年の富山城及び城下町の発掘調査の成果についてまとめ、今年の3月に桂書房から書物を刊行しました。そしてそのダイジェスト的な内容を、今回の越中史壇会の総会で講演するというので、この機会にと出かけました。

編集_007富山城天守(南西より)
富山城の研究は、実はそんなにふるい話ではなく、ここ10年ほどの間に急速に進んでいるということでした。
富山駅前を中心に市街地の再開発工事がすすめられ、そのための事前調査が富山城とその周辺の城下町跡で行われています。ご承知のように、富山城は何段階かの変遷を経て、今の城跡があります。白亜の美しい天守も昭和29年に築造された模擬天守です。

編集_022富山城本丸「鉄門」内部の石垣
富山城の最初は越中国守護代の神保氏が築いたといわれ、上杉軍との戦いで天正4年(1576)に城を追われ、守山へ退却します。
謙信の没後、天正6年(1578)斎藤新伍利次がこの城を攻略し、攻め取りましたが、翌7年には織田の軍勢によって越中が制圧され、信長は佐々成政に守護職をあたえて越中支配を任せます。成政は富山城の改修に取り組みますが、10年に信長が非業の死を遂げると柴田氏や家康とともに反秀吉側に立ち、天正13年に秀吉との決戦に挑み、敗退します。

その後加賀、越中を手中にした前田利家の嫡男利長が在城します。利家がなくなると、利長は金沢に戻り、3代目金沢城主利常の息子利次が越中を分有し、居城します。その後明治を迎えるまで前田家が支配することになります。

富山城の発掘調査は、意外にも2003年に富山城址公園内で行われた試掘調査が最初でした。城歩きマンも気が付きませんでした。もっと昔に、城址公園整備の際にすでに掘っているだろうと思っていました。そして、城下町跡の発掘は翌年の2004年から始められ、現在も開発に伴う事前調査として続けられています。

編集_0172008年に移築された千歳御門
そうした調査の経過を年代ごとに順に説明されたのですが、城歩きマンが印象に残った話としては、本丸「鉄門」入口の食い違い虎口の石垣に、巨石がいくつか嵌め込まれている、大阪城などでもよく引き合いに出される「鏡石」についての話でした。

2005・6年に城址公園の整備や本丸に立つ郷土博物館のリニューアルに伴って、石垣の解体修理が行われ、南西側石垣の「鏡石」は長さ約3.6mの大石を立てに嵌め込んでいます。興味を引くのは、外してみて分かったのですが、厚さを幅50㎝ほどに薄く剥ぎ取っているということです。重量は約6トンだそうですが、厚さが1mだと重量は単純に言って倍ほど重くなり、持ち運びには大変難渋したことでしょう。見かけは大きいのですが、じつは中身が薄く剥ぎ取られた石材だった、というのが面白いのです。

編集_038佐藤美術館脇にある搦手口
もう一つ、面白い話としては、同じ鉄門の石垣に「星形」の刻印のある石が見つかっていることです。富山城本丸の鬼門の方角は、現在「佐藤美術館」のある場所で、搦め手口があります。その位置からちょうど反対の南西方向にあるのが「鉄門」で、この門の石垣に「星形」の刻印を施しているわけは、「裏鬼門」封じのためだそうです。

古川さんの話では、富山城とその城下町は中世以前、中世から戦国期の神保、佐々氏の段階、慶長期の前田氏が入ってきたころの段階、藩政期とに区分され、基本的な縄張りは慶長期に形成されたようです。その後寛文年間、万治年間に城下町の再整備が行われ、現在に至っているのですが、このあたりの詳しい話は今年の3月に刊行された書物にのっているのでそちらを参照してください、とのこと?!

富山県は、昔は平野のあちこちで区画整理や圃場整備など、土地の大規模な改変工事が行われ、そこへ高速道路など国の政策的な開発工事が目白押しでした。そのため、平野での発掘、とりわけ安田城の発掘・整備や、白鳥城跡、弓庄城跡、梅原護摩堂遺跡等々の発掘が話題になりました。

そして近年では高岡城やこの富山城での発掘の成果が話題に上るようになってきました。今後もこうした城跡の調査が進み、成果が蓄積されて、城郭研究が進展することに期待したいと思います。

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