若越城の会第1回学習会(8月17日)について

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平成26年8月17日(日)敦賀市中央2丁目の文化振興課分室で若越城の会の今年第1回目の学習会が実施されました。

今年の11月県外研修として、広島県の山城を回る予定で、その事前学習を兼ねた勉強会です。講師には直々に広島県の中世考古学研究者のOさんをお招きして、毛利氏の吉田郡山城や広島城等の今一番ホットな話題をお話ししていただきました。

広島県では郡山城をはじめ、吉川氏、小早川氏などの居館や山城が発掘調査されて、それらの整備や保存活用も進められています。

今回のお話の中で一番興味をひかれたのは、やはり、毛利氏がそれまで居城としていた吉田郡山城から、どういう過程を経て広島城へ移転したか、という点でした。

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歴史の上ではこれまで毛利氏が秀吉の臣下に下り、天正16年(1588)以降に広島に築城を開始し、あしかけ4年後の天正19年(1591)に入城したということになっていますが、それはじつは形だけのことで、その後も吉田郡山城は使われていたというのです。

郡山城の、本丸や二ノ丸跡で整備に伴う遺構確認調査が一部で実施され、またその後の史跡公園内で、シカやイノシシが増えて、えさを求めて平坦地を荒らした結果、遺構面の遺物が散乱してしまうことがあり、そうした遺物の中にカワラケや中国陶磁器、日常生活用品等に混じって、16世紀末から17世紀初頭頃の金箔瓦等があることが分かったのです。

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これらは本丸の御殿群や二ノ丸の政治向きの建物に瓦が葺かれていたことを意味していて、明らかに織豊期の築城法の特徴だというのです。
また遺構でも石垣が本丸、二ノ丸などの中枢部で多用されていることも、いわゆる織豊期の築城技法が取り入れられた根拠とされています。

広島城への移転は、元就の跡を継いだ輝元が自ら普請したことが主要な要因ではなく、秀吉が朝鮮出兵をにらんで、瀬戸内海に面した肥前名護屋城へのルート、中継基地を固めることだったと言い、そのなかに広島城が含まれていたというのです。
この観点は従来の解釈から大きく前進したもので、「豊臣大名」になってもなお、生き延びようとする毛利氏と秀吉たちとの確執が、よりリアルに伝わってくるようで、歴史の醍醐味にあらためて感じ入った次第です。
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