安曇野・白馬村「三日市場城見学会」参加記(その3)

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今年の4月、三日市場城が地主によって伐採林の搬出用として林道開発が行われ、遺構の一部が削平・撹乱を受けました。
写真は主曲輪と東側の曲輪を区切る南北方向の堀切に入れられた道路です。幅3mほどでしょうか、もとの堀切の裾部分が少し飛ばされた程度で、被害は最小限にとどまっています。

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この堀切(削平を受けた)から東側の第2曲輪の様子。手前側に堀切に沿って土塁があり、向こうは平坦地です。この曲輪のさらに東側にも堀切、土塁によって分断された曲輪があります。
何れも、まだ9月だというのに下草もほとんど伸びず、見通しは極めて良好です。そんなにこまめに雑木や下草の除去をしているわけではない、との地元の話。

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主曲輪の北側腰曲輪、さらにその下位に施された空堀(横堀)と畝状連続竪堀。
三日市場城のもう一つの見学の目的はこの畝状竪堀にありました。

一体に「畝状竪堀」はその昔、越後上杉氏、朝倉氏、はたまた中国の毛利氏などによって多用され、そうした大名の専売特許のようにかまびすしく持て囃された時期がありました。
あれから約20年、さすがに最近ではそんなことを言う人たちはいなくなり、すっかり静かになりました。

あの時の議論は一体何だったのでしょうか?発言された人たちはちゃんと「総括」したのでしょうか。今、こうして信州の安曇野での畝状竪堀をもつ山城に相対しています。築城主は白馬村を所領としていた沢渡氏であろうといわれます。畝状竪堀と一緒に確認される放射状に広がる竪堀をとらまえて、武田氏の築城技術だとする言い方もいまだにありますが、城歩きマンにはこの見方は「危ない」なあと思われます。

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畝状竪堀と空堀(横堀)を別の角度から見た写真です。空堀と、その外側に築かれた土塁を切って畝状竪堀が刻まれているのが一目瞭然で、確認することができます。
つまり、空堀、土塁が生きていた時期とそれを捨てて、畝状竪堀を刻んだ時期とは明確に時期差がある、ということが分かります。ある時期に一つの設計思想に基づいて一回で築いた、という見方もあるようですが城歩きマンにはそうは思えません。

この辺りは議論の分かれるところです。今後とも大いに意見を戦わせる必要があるでしょう。

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東端にある曲輪と堀切、土塁の様子です。いずれの遺構も深く、鋭く明瞭に築かれていて、とても分かりやすい山城遺構でした。村の史跡に指定されていたのも頷けます。

今後の修復作業と地元の保存、活用の働きかけが大いに期待される山城でした。
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