石川県の畝状竪堀をもつ山城(その2)

石川県の畝状竪堀をもつ山城について(2)

前回のブログに書いたとおり、石川県内の畝状竪堀をもつ山城は、『石川県中世城館跡調査報告書』や、その他発掘報告書、ブログの情報から知り得たもので、十分調べ尽したものではありませんが、➀町屋堡・➁枡形山砦(鹿島郡中島町)、➂熊木城跡(穴水町・鹿島町)、➃向田城(七尾市能登島町)、➄石動山城砦群・荒山道砦(鹿島郡鹿島町)、➅飯田城(珠洲市)、➆堅田城(金沢市)、➇大聖寺城(加賀市)など8ヶ所があります。(○番号は図中の位置と同じ)

編集_IMG_0001_NEW
10年ほど前の、城歩きマンが全く気付かなかった頃からすれば、繰り返しになりますが、隔世の感があります。
1,2の山城を除けば、そのほとんどは『日本城郭大系』第7巻新潟・富山・石川でも取り上げられているものばかりですが、中世城館の研究が進み、山城の遺構論が活発に議論されたお蔭で、畝状竪堀に対する意識も格段に深まり、その後に計画された中世城館の悉皆調査では畝状竪堀を見逃すような事例がほとんどなくなった、ということでしょう。

ここ数年間に出版された各県の中世城館や戦国時代の城館調査の図面には、きちんとこうした畝状竪堀の有無や、遺構の内容について記述があり、山城研究にはとても重宝する情報となっています。

石川県は中世には七尾城、近世には金沢城があって、それで事足りていた、という印象が否めないのですが、中世城館調査報告書の刊行によって条件は整い、一段と山城の研究はレベルアップすること間違いなしですね。
福井県なども、一乗谷以外は全く興味、関心をもたれず、丸岡城、小浜城ぐらいが時折話題になる程度でした。まして山城のことなど‘推して知るべし’です。

ですから、城歩きマンがクドクド述べる必要など全くないかもしれませんが、そこはブログ上でのこととご寛容を頂いて、少し手前勝手な意見を書かせてもらおうと思います…。

このブログで取り上げた8ヶ所の山城のうち、七尾市能登島町の向田城、鹿島郡中島町の枡形山砦、町屋堡については『城郭大系』では築城主に関する記録は残っていず、詳細不明の山城とされています。

但し枡形山砦と町屋堡は在地土豪の国分氏に関連するかもしれない、との推定が付け加えられてはいますが――。この2城とも、その後の『中世城館調査報告書』で遺構配置図が作成され、畝状竪堀のあることが分かったのですからすごいですね。

また、能登島向田町の向田城も、その後の調査で詳細が明らかになったようで、現地には北、南の両曲輪群2ヶ所に分けて曲輪群や城主の居館跡などの様子を図入りで説明した看板が取り付けられています。

他のブログに付記されていた情報ですが、能登島の山は入山禁止?になっているそうで、そのためか山全体が藪に覆われて、とても踏査できる状態ではないそうです。残念です。
そのため、説明板に書かれている模式図以外に、山城の遺構を知る手だてがないのが現状だとか…。

向田城は別名「金鶏城」とも言い、南北朝時代に長胤連(ちょうたねつら)が築いた城跡とされています。麓の向田集落付近に向田館跡があって、一体のものとして認識されています。北曲輪群と南曲輪群の2グループに分かれる比較的規模の大きな城郭で、どうやら戦国時代に整備された山城のようだと言います。

能登半島の北端に近い珠洲市の飯田城は、在地土豪の飯田氏によって築城された、との伝承を残し、また天正5年(1577)の上杉謙信の能登侵攻において七尾城攻略のために謙信が築いたともいわれています。『石川県中世城館跡調査報告書』では15条の畝状竪堀がある、としています。

鹿島郡鹿島町の石動山に関連した城砦群も多数確認され、そのうち荒山道と称される石動山への七口のひとつと言われる参詣道でもいくつかの山城が確認されています。これらは天正10年7月の柴田勝家を大将とした織田方の軍勢による加賀侵攻に備えて、急遽石動山の衆徒によって築城されたとみられています。

一方では天正5年の謙信の能登侵攻に際して畠山氏が築いたともいわれています。

同じく鹿島郡の中島町にある熊木城は、南北朝時代に、熊木左近将監が所領の安堵を要求して幕府に訴え出たとされる記録から古い伝承をもっていますが、確実な記録は天正年間の謙信による能登侵攻に際しての城の争奪によって、その状況をうかがい知ることができます。

編集_編集_大聖寺ろ007
『石川県中世城館跡調査報告書』では主郭部分の南端や、鞍部北側の小曲輪北端部に2~3条の畝状竪堀がそれぞれ確認されています。

金沢市堅田町にある堅田城は木曽義仲の伝承をもつ山城で、古くから知られていたようですが、「宝暦十四年旧蹟調書」という文書には城の内容について「御馬場」「御厩跡」、そして「ささら堀」の記述があると指摘されています。

近年、道路のトンネル工事に伴う遺構確認調査であらためて山城の踏査が実施され、また測量図が作成されたようです。現地には遺構図を示した説明板が立てられ、現地見学ができるように整備されました。

この「宝暦十四年旧蹟調書」に記された「ささら堀」とは何を指すのでしょうか?
普通、ささらと言えば竹を薄く切って束ねたささらを思い出しますし、「簓子(ささらこ)塀」など、家の板塀に使われる連続の板張りの塀が想い出されます。

ちなみに一乗谷城の場合は、戦前の地誌などで畝状連続竪堀を「ささぎ畝」と紹介しています。言い得て「妙」ですね。その「ささら堀」は報告によると主郭北から西側斜面で7~8条確認されています。

大聖寺城は石川県南端の加賀市にあり、南北朝時代から戦国時代富樫氏や一向一揆の時代に登場する城跡としてよく知られていますが、本丸の南側にある曲輪「鐘ヶ丸」の西側斜面に部分的に3条の畝状竪堀が確認されています。
これも詳細な測量図が作成されていなかった近年まで、あまり話題に上らず意識されていませんでしたが、やはり、畝状竪堀をある時期縄張の一部で採用していた城跡であるとすることができます。

以上、極めて大ざっぱですが石川県の畝状竪堀をもつ山城に絞って、概観しました。守護大名とされる畠山氏の七尾城や、富樫氏の高尾城などにはこの畝状竪堀はなく、それ以下のクラスの武将が侵攻してくる敵軍との戦いのために用いた構築物か、とも思われる畝状竪堀の在り様ですね。
そして、山城の規模や全体の縄張りを見ていて思うのですが、はじめから計画的に採用する構築物ではなく、山城の機能の補強、強化を図るために、後になって追加、修築している施設である、と思えて仕方ありません。
スポンサーサイト

COMMENT 0