2014年を振り返って――城歩きマンの城めぐり(3)

2014年を振り返って――城歩きマンの城めぐり(3)

編集_朝倉山城主郭部・展望所DSCF2387
4月8日の福井新聞に福井市朝倉山城の山頂にベルが取り付けられ、自由に鳴らせることができる、という記事が載りました。写真を見ると、ベルが取り付けられたところには木で組んだ櫓のようなものが建っていましたので、どんな状態なのか、とても気にかかっていました。

そこで、19日(土)に実際に朝倉山城の踏査を敢行しました。
この山城は、以前は日吉神社のある北側山麓から、ほぼ直登するコースで登っっていましたが、最近は山をぐるっと取り巻くように林道が開かれていて、ゆっくりと付近を散策しながら登ることができました。

それもそのはず、付近の棗小学校の児童が遠足で登れるようになったのですから…。
山頂の山城は、むかし、城歩きマンが仕事で登った時には灌木に覆われていて、全く周りの見通しが利かず、調査がとてもつらかったのを覚えています。今回は、山頂部はとてもきれいに樹木が取り払われていて、大変見学しやすい状況で驚きました。

編集_朝倉山城展望台から海岸を臨む2DSCF2412
件のベルは確かに気で組んだ櫓の上に取り付けられていましたが、櫓は城跡の上にチョン乗せの状態で、山城の遺構そのものには破壊の恐れはないようでした。
周りがきれいになっていたおかげで、山城の遺構をもう一度ゆっくり見て回ることができて、今まで気が付かなかった本城跡の新たな性格も発見しました。

それは、山頂部の遺構の各曲輪の周囲は、じつは石垣が巡っていたのではないか、ということです。戦時中に防空監視所がおかれていたこともあって、大きな穴が掘られていたり、平らにならされていて、相当に撹乱が進んでいるやに見受けられるのですが、平坦部のエッジには辛うじて石垣の残骸が見られ、北側には入口らしき石列も確認できました。テレビアンテナのある北東部のコーナーでは土塁痕跡も確認できました。

この城跡は朝倉玄蕃助景連の居城だったものを、信長の越前再侵攻に備えて一揆衆が鷹巣城とともに手を加えて再構築したとされていますが、今見る遺構はその時のものだと確信できました。
時期的にも、戦国時代末のものとみてよいようです。

編集_DSCF2465西勝原集落から勝原城を望む
もう一つ、今年の大きな成果の一つに大野市の勝原城があります。

実態不明の山城のひとつで、是非とも登ってみたいと思っていました。そこで、4月27日(日)、きれいに晴れ上がった春の日に大野市勝原城の踏査に出かけました。

大野市の平野部からはずいぶんと奥に引っ込んだ位置にあり、なぜ、こんなところに…と思っていました。
城主についてもよく分からず、築城意図も不明の山城でした。
しかし、書かれたものを見ているだけでは分からないことも、実際に現地に行って、登ってみると解決できることも多々あるものですね。この山城が事実そうでした。

編集_DSCF2480勝原城主郭部北側段曲輪の土塁・石垣石
九頭竜川の蛇行している西勝原町の、半独立丘の山の頂上に城跡はあります。標高380mで、国道158号線からの比高差は約80mでした。ほとんど人が入っていないようで、登城路はブッシュで全く分からなくなっていました。

ここは近世に入って、大野藩の口留番所が置かれたとも言われ、その時期に城跡自体も大きく手直しされた可能性があります。現地に立ってみて、そのことがはっきり分かりました。石積みの土塁や虎口、円郭式に巡る曲輪のエッジにも石垣が見られ、やはり、この城跡も戦国末から安土桃山期の様相をもっていると考えられるものでした。

築城主も室町時代の二宮将監、朝倉氏時代の林浄恵、そして柴田勝家の家臣山路将監等々が挙げられますが一番現地の遺構に近いのは柴田氏家臣の山路将監か、はたまた、大野藩の口留番所が設置されたころか?いろいろと考える余地の多い城跡となりました。
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