早春の石見路――津和野城(その2)

早春の石見路――津和野城(その2)

TU3津和野見学ルート
民家の庭先には、もう梅の花がチラホラと咲き始めているのが見えます。ここでは春が来ているのかな、と思いながら更に歩いて、JR山口線のアーケードを潜り、右に折れると橋が見えてきました。その向こうに旧津和野藩庁跡、馬場先櫓、物見櫓の建物が見えてきました。この二つの建物は津和野藩時代の、唯一現存する遺構だそうです。

TU6津和野城下町、馬場先櫓跡津和野城下町、馬場先櫓跡

TU7津和野城下町、物見櫓跡同、物見櫓跡
櫓に向かって橋を渡ると、すぐ左手に津和野高校の校舎があります。そして、本丸登城リフトの大きな看板も。
ただ、この登城リフト、冬場は休業だそうで、2月一杯までは稼働していません。ヤンヌルかな…。城山まで比高差約200m、歩くとかなり時間がかかりそうですが(大人の足で25分ほど)、仕方ありません。

TU8津和野城下町より本城を望む
本丸登城口と書かれた看板の脇から、いよいよ登城。城跡は標高362m、「霊亀(れいき)山」と呼ばれる山の頂上に築かれた山城で、南北方向の尾根線に沿って約2㎞にもわたって遺構が残っています。

TU9津和野城登城口
最初の築城は吉見氏で、鎌倉時代、文永5年・弘安4年(1268・81)の元寇、いわゆる九州博多沖の元の襲来で沿岸防衛の必要性を痛感した幕府が、西石見の防禦のために派遣したことに因ります。

能登吉見氏の分家とも言われる石見吉見氏の初代頼行(よりゆき)が、弘安5年(1282)に三本松城を築城したのが津和野城の始まりです。城が築かれたところは周防山口から石見へ抜ける街道筋にあたり、国境を防衛する要衝とも言えます。

一説には、長門の萩城は石見吉見氏が築いた出城だと言われます。11代目正頼(まさより)は大内氏に仕えていて、天文23年(1554)には大内氏に背いた陶晴賢と戦い、これを撃破しました。正頼は天正9年(1581)、隠居して指月山に遁世したと言います。

津和野城と萩城が、こんなに近い関係にあったとは――!?
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