早春の石見路――津和野城(その3)

早春の石見路――津和野城(その3)

TU10津和野城登城道
登城道は、最初はゆっくりと緩やかな道ですが、途中から急勾配になります。史跡整備のためのものでしょうか、所どころで大手道にトレンチ調査の跡が見受けられ、細く掘った穴があります。そこには20㎝ほど(人頭大)の川原石を積み上げた高さ約1m前後の石垣が要所ゝゝに施されているのが確認できます。

かつては登城道には側面に石垣が葺かれて、階段の続く整備された道だったことが推測できます。ただ、この大手道は近世の坂崎氏、亀井氏以降のものだと考えられていて、中世には尾根の西側麓にある喜時雨(きじゅう)が大手だったと言います。

TU12津和野城登城道石垣2
方角としては、西から東へ城下がまったく逆の位置に動いたわけですから、津和野にとっては大きな出来事だったことでしょう。
同じような例は大和宇陀地方の秋山城でも言えます。中世の秋山氏がいた頃は、伊勢街道に面した城の南側山麓部に城下が形成されたと言いますが、豊臣勢力の多賀氏や福島氏が入ってから、宇陀川のある西側山麓部に移して城下町が形成されました。名前も松山城になりました。

すぐ隣の伊賀上野城でも然りで、最初に築城した筒井氏は城の北側裾に城下町を作ろうとしましたが、後に入った藤堂高虎は逆方向の南側に武家屋敷、城下町を作りました。考えてみれば、こうした変更は当然あったことでしょう。歴史が面白いのはこんなことがあるからでしょうね。

TU11津和野城登城道の畝状竪堀
道の途中に、ふと、足を止めて休憩していたら、目の前の斜面がヒダ状にうねっているのがみえました(写真)。何故こんなところに畝状竪堀が…。3条ほどの竪堀が明確に刻まれているのが分かります。しかし、場所的には山の中腹とも思えるところでもあり、付近には曲輪も堀切もありません…。縄張図を確認したら、真上に本丸・太鼓丸がある位置に相当します。

一度、回りを歩いて調べ直す必要が――とも思いましたが、そこまでやってる暇がありません。次の機会に、と思います。
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COMMENT 2

midorishako  2015, 02. 22 [Sun] 19:55

リフトが休みでも

津和野城、行ったことはありませんが、この記事を読んでいたら素敵な城下町らしいので、行きたくなりました。それにしても、リフトが休業中で、登城をあきらめるのかと思ったら、200mを「やんぬるかな」と登っていくので、すごいと思いました。途中「畝状竪堀」らしきものが発見できて大収穫でしたね。

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城歩きマン  2015, 02. 22 [Sun] 21:01

midorishakoさん、コメントありがとうございます。

津和野城と萩城に関する旅行記事、まだまだ続きます。書きたいことが山ほどあります。

目下、別の原稿執筆に大わらわですが、合間を見てブログ続けます。
乞う!ご期待。

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