吉崎御坊と細呂木館跡(その2)

吉崎御坊と細呂木館跡(その2)

史跡吉崎御坊跡御坊跡遠景(北から)
平成27年4月16日(木)金沢市堅田城跡の踏査の帰り道、北潟湖北岸にある吉崎御坊跡を見学しました。

本願寺別院の本堂のある境内を抜けて、奥の細い階段を上ると御坊跡という広い平坦地に出ます。蓮如がこの高台に坊舎を建てて布教の基地としましたが、加賀守護富樫氏との戦いでこの地を追われて一時期衰退しますが、江戸時代に入って東西両派に分かれた本願寺勢力によって再建され、山下の山裾に両派の坊舎が建てられ、今日に至っています。

現在、この高台だけが国の史跡に指定(昭和50年2月)され、公園として整備されています。

蓮如上人の像
横向きで恐縮ですが、御坊跡の南側中央部に立っている蓮如上人さんの銅像です。北側に向いて立っているため、どうしても日中は逆光の位置になってしまいます。仕方がなかったので、横から撮影しました。

一向一揆の歴史を物語る遺跡が、この北陸の地にせっかく残っているのですが、どのような寺内町が経営されていたのかは、詳しい調査が進んでいないために分かりません。
京都の山科、大坂の石山本願寺、そしてこの吉崎の本願寺寺内町の3つの遺跡が、より一層、明らかにされることが期待されます。

そんなことを呟きながら、吉崎を後にして、北潟湖の湖岸沿いに南下し、かねて踏査したことのある細呂木館跡に向かいました。
細呂木館跡遠望(北から)細呂木館跡を北側から遠望する
細呂木館とは、あわら町の竹田川一帯を支配した中世の国人堀江氏の一族で、この地を領有した細呂木氏の居館跡です。戦国時代には朝倉氏の勢力下に入り、国境警備のために関所をおいて、通行を監視していました。

永正年間の加賀・越前の一向一揆と朝倉氏との戦いは凄惨を極め、双方が大きな痛手を蒙りました。しばらくは北陸道の通行を禁止し、関所も閉鎖されてしまいました。

この北潟湖東岸の道が、北陸道の脇往還のひとつになっており、蓮如さんも北陸布教のためにこの道を往来したと言われています。
細呂木館跡遠望(南から)細呂木館跡を南側から遠望する
正面にみえる高台には居館とも、役所跡ともいえる土塁で囲まれた大きな屋敷の跡が残っています。よく見ると入口がふたつあって、当初は西側に、あとで東側に付け替えられたような造りとなっています。
この遺跡も北陸の戦国時代を語る重要な遺跡のひとつとなっています。何らかの整備が望まれるところです。見学のためにここを訪れる、歴史好きの人たちのためにも見学道路や説明板がほしいですね。(この項終わり)
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