西明寺時頼廻国伝説と水海の田楽(その2)

西明寺時頼廻国伝説と水海の田楽(その2)

2大野宝慶寺山門宝慶寺山門
「街道をゆく」の『越前の諸道』で、司馬さんは宝慶寺について「谷川に、コンクリートが古びて砂岩のようになった小さな石橋がかかっている。渡ると、そこから深い杉木立の道が山の奥へつづいており、そのトンネルのような道のむこうを窺うと、何やら寺への道めかしかった。中略。四脚門をくぐっても、道はつづいている。そのはてに楼門とは名ばかりの簡素な山門があった。その簡素さがえもいえず好もしいが、しかし印象と言えば貧寒とした山寺であるというほかない。」と書いています。

やや長くなりましたが、司馬さん流の表現で、とても好感のもてる紹介ですね。
現在、城歩きマンが訪ねた宝慶寺は、見学客の利便性を優先して駐車場も整備され、山道も砂利が敷き詰められてきれいになっています。古色蒼然とした雰囲気ではありません。

3大野宝慶寺法堂宝慶寺僧堂(座禅堂)
前回紹介しましたが、宝慶寺の檀越(だんおつ)であった伊自良氏と西明寺時頼は深い関係があります。『越前国城跡考』では西明寺となっていますが、実際は鎌倉に最明寺というお寺があって、弘長3年(1263)にこの寺で亡くなっています。

最明寺道宗(時頼)はさきに康元元年(1256)32歳で執権を辞し、最明寺に引退します。そしてこの寺で出家し法名は覚了坊道宗と称しました。ですから正しくは最明寺道宗と呼ぶべきでしょう。

話を戻しますが、伊自良氏は北条泰時が地頭職を有していた大野、小山庄の地頭代でしたが、伊自良知成(ともしげ)のころ美濃伊自良郷から味見郷中出に移り、居館を建てて支配の根拠地としました。
北条泰時とは時頼の直系の祖父にあたる人物で、鎌倉御家人の中でも執権時頼とは近い関係にあったことが想像されます。こうしたことから知成は弘安元年(1278)宝慶寺の七堂伽藍を整え、最明寺入道道宗の菩提所として寺運の興隆を祈願しました。

『増鏡』草枕の抄に「故(北条)時頼朝臣は康元元年に頭おろして後、忍びて諸国を修業しありきけり。それも国々のありさま、人の愁へなど、くはしくあなぐり、見聞かんの謀にてありける…。」と書かれているところから、廻国伝説が生じたと言われます。

この話と水海の田楽が結びつき、時頼が水海の鵜甘神社(当時は八幡社)に立ち寄り、農民から田楽を披露されたので、お返しに能舞を教えた、ということになりました。

この話は能舞が室町時代以降のものであることからも、あり得ない話であると断り書きが附いていますが、時頼の諸国行脚の話は関東、中部地方から近畿、中国地方あたりまで、広く分布しており、なぜそんなに広まったのか、不思議な気もします。謡曲「鉢の木」にも時頼が登場していることが知られています。(この項続く)
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