祇王御前と仏御前(その2)

祇王御前と仏御前(その2)

仏御前尊像仏御前尊像
千才庵と書いて、ちとせあん、と読むそうですが、仏御前の幼名に因んでつけたそうです。
仏御前の尊像をお守りする林さんのご自宅に入れてもらって、30分ほどの間、仏御前についてお話を聴くことができました。林さんは熱心に仏御前にまつわる由来や、地域の由緒について語ってくれました。

まったくラッキーでした。たまたまが重なって、こうして直接関係者の方から仏御前について話が聴けたのですから…。
こんなことは滅多にありません。本当にありがとうございました。

平安時代の中期頃、冷泉天皇の第一皇子、花山天皇が在位2年間で退き、出家しますがその後各地を行脚し、この原町の近くの那谷寺に参詣し、五重塔を建立したと言います。そして塔ヶ原と呼ばれていたのを、仏御前が出てからは「仏ヶ原」と呼ぶようになったとか…。

仏御前屋敷跡仏御前屋敷跡・墓所
仏御前は『平家物語』にもあるように、清盛の寵愛を一身に受けるようになりますが、祇王親子が嵯峨野に出家すると、後を追うように嵯峨野に入り、祇王とともに仏道に精進する毎日を送りました。

そして安元元年(1175)の春、故郷が懐かしくなって、ふるさとの原の里に戻ります。美濃国穴間の谷を通って、白山山麓の木滑から峠を越えて帰ったのです。美濃国穴間、とありますが穴間とは福井県の旧和泉村の呼称で、おそらく長良川を遡って油坂峠越えで穴間(馬)に入り、奥越平野から再び谷峠を越えて、白峰、鳥越を抜けるコースを辿ったものと思われます。
仏御前荼毘所仏御前荼毘所
仏御前はその美貌のあまり、民のねたみを買い、村人に殺されてしまった、と伝説では述べていますがいかがなものでしょうか?本当のところは分かりません。
第一、ねたみを買って殺された、というのではあまりに仏御前が不憫すぎます。城歩きマンの歴史辞書には、ねたみを買った、とだけにしておきたいと思います。

仏御前は治承4年(1180)、20歳の若さで没したわけですが、その荼毘所と言われる場所が、原町集落の裏山にあります。一面畑地になった広い平坦地の西のはずれです。
また屋敷跡とその墓所もちゃんと残されていて、千才庵から4,50m西に寄った通りの脇にありました。

両方にお参りを済ませてから、立ち去りがたい想いを振り切って我が家への帰路につきました。
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