越前大野城について

越前大野城について

平成27年7月27日(月)むかしの資料を整理していましたら、昭和43年の新聞の切り抜きが出てきました。越前大野城の天守閣が復元され、記念の大野まつりが盛大に行われた時の広告記事です。
いまから47年も前のことです。

時の大野市長は寺島利鏡さんで、その挨拶文に「…大野市の象徴、越前大野城は天正12年(1584)金森長近公によって建設されましたが、安永4年(1775)焼失したままとなっていました。市民は久しくその再建を待望していましたが、故萩原貞翁の御芳志でこのたび完成しました。また明治百年記念の郷土歴史館も時を同じくして完成、市民の精神文化の殿堂として、今後大いに役立つものと喜んでいます…。」と書いています。

大野城は萩原貞という旧士族の人から当時のお金で300万円の寄付(と記憶しています?)があり、これを元手に復興天守の工事が実現したと言います。当時の状態を忠実に復元したかどうかという問題はありますが、やはり今では城下町の歴史のシンボルとしてなくてはならないものとなってきています。

おなじ福井県の小浜城も天守復元の話があったと聞いていますが、こちらはまだ実現していません。小浜城こそ正確な城絵図が残っているのですから復元するのはさほど難しくはないはずですが、やっぱり先立つものがないことには――か。

写真に示したのは宣伝広告に載った大野城です。ほぼ東南側からとったものでアングル的には麓下の大野簡易裁判所あたりの高い位置から望遠レンズでのぞいた写真のようです。
中央が天守部分で、左は天狗の間と呼ばれる櫓です。内部は資料展示室になっています。当時は天守の東側に連結した小天守があったと言われます。しかし、安永4年の大火で焼失してしまい、以後天守は復元されず、本丸に大広間と天狗の間が建てられたそうです。昭和43年の復元工事はこの記録を根拠にして復元したものと思われます。

越前大野城天守復元記念1968年8月越前大野城天守閣復興記念大野城まつりの広告記事(1968.8)
広告写真の左には同時に建てられた郷土歴史館の建物が写っています。中央の銅像は復元工事の費用を寄付した萩原貞翁です。
大野城の築城は市長の挨拶文には天正12年となっていますが、正確には完成の年が、ということでしょう。築城開始は天正5年頃と言われていますので、やはり丸岡城や犬山城(愛知県)とともに当初は慶長期以前の古い様式の城だったと言えます。

城は当時の城郭プランを示す絵図などが残っていないため、名古屋市蓬左文庫に残る絵図や土井家文庫の絵図などからの推定復元によるものと思われます。それはそれで仕方ないのですが、実際のモデルはどの城だったのでしょうか気になりますね。
何度も現地の山に登っていますが、標高250m(比高差75m)の独立丘陵の山頂部に築かれた平山城だと言われていますが中世山城の様式を色濃く残した城郭でしょう。本丸が築かれた亀山は北東方向から南西方向に細長く延びており、城郭遺構はその尾根線に沿って400mにわたって階段状に7~8段の曲輪が連続して並んでいます。丘陵の斜面は斜度が強く、とても急峻です。堀切は南側の第1曲輪と第2曲輪の間に1ヶ所みられ、他には見当たりません。これほどの急傾斜なら、さしたる防御施設は必要がなかったのかもしれません。

山頂中央部に北、東、南の3方向に広がる矩形の平坦地が造成されています。ここに二階建ての大広間が建てられていたのでしょうか。昭和の復元工事では望楼付きのちゃんとした天守のかたちになっていますが…。
山下には二ノ丸があり、政治向きの御殿が建てられていました。二重の堀が巡らされ、東側には武家屋敷、さらにその外側は町屋、外郭には寺町が配置されたと言います。

つい最近になって、「天空の城」として脚光を浴びた大野城ですが、丸岡城に並ぶ古式の石垣や城郭を備えた城跡だったのではないかということを改めて考え直すきっかけとなりました。

編集_大野城遠望(南東から)越前大野城(2013.4撮影)
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COMMENT 2

midorishako  2015, 08. 07 [Fri] 11:02

一向一揆と大野城

今「信長公記」(現代語訳)を読んでいます。天正3年(1575年)織田信長による越前一向一揆への攻撃があり、「8月15日から19日までの記録簿に、諸部隊が生け捕りにして信長の本陣へ提出した敵は12,250余人・・・信長は・・これらの捕虜を斬首させた。・・・生け捕りにした者と斬首した者、合わせて3・4万人にも及ぶだろうか。」とあります。一向一揆を殲滅させた信長は、柴田勝家、金森長近らに越前の国を与えました。金森長近は、奥美濃から大野に入り、一向一揆を混乱に陥れたそうです。信長に敵対する一向一揆が攻撃されることは当たり前でありますが、城が民衆弾圧のシンボルであることを改めて思い知りました。そういうことも知った上で城を眺めてみるとまた違ったふうに見えますね。

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城歩きマン  2015, 08. 07 [Fri] 14:43

midorishakoさん、コメントありがとうございます。
大野城は、丸岡城と共にとてもなじみの城ですので、分かった気でいました。

ところが、よくよく見なおしてみると、この城は金森長近が築いた城であるということ以上に、天正期から慶長期までの間に築かれた、近世城郭のいわゆる過渡期の時期に築かれた平山城なのだ、ということ。

いや、そんなこと当たり前、なんですが私にはあらためて、実感した城でした。
平野の端っこにある独立丘陵上に、野面石で積み上げた直線的な傾斜の石垣…。
丘陵上に並んでいる中世風を残した曲輪群、堀切。
櫓や天守に相当する建物はせいぜい二階建てまでの簡素な造り。

福井では大野城のほかにも丸岡城、東郷槇山城があります。城の作り方がとてもよく似ていて、共通性が高いのです。

他には京都の福知山城、滋賀県の近江八幡山城、奈良の大和郡山城、飛騨高山の高山城、さらには島根県の津和野城、こちらはちょっと時代が降っていますが、いずれもみな石垣の積み方や曲輪の縄張配置に共通性を感じさせてくれるものばかりです。

近世には廃城となるか、もしくはほとんど手を加えられずに時代が経過したようなところがあります。
もう少し、福井の城を見つめ直す必要があるようです。

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