美浜・国吉城周辺を歩く(6)

美浜・国吉城周辺を歩く(6)
9主郭内部(北から)主郭内部(北から)
中山の付城と言われている山城の中心部に着きました。山頂部ではありますが、周りには杉が植林されていて、あまり手入れが行き届いていないせいか、枝は伸び放題、折れた枝先が散乱していて、足の踏み場もありません。

12主郭部内の一石多字塚一石多字経塚
「一石多字経塚」と彫りこまれた石碑が主郭部のやや中央部に、倒れ掛かって斜めに傾いて立っていました。埋め込んだ根元部分が浮き上がって、今にも倒壊しそうです。円礫が散乱していて、経塚遺跡は荒れ放題の体…。町か地区か、どちらが管理しているのか、もう長いこと管理の手が入っていない様子です。

10主郭部南東側張出し曲輪、土塁主郭南東部張出し曲輪・土塁
そんなことを気にしながら、主郭部の土塁や、堀切などを見て廻りました。主郭部南端部の土塁の上にもうひとつ石碑が建てられていました。
こちらは「国吉城見張之址」と彫られています。まだそんなに風化した様子もなく、最近、顕彰碑として立てられたもののようです。これもやや傾いています。

13国吉城見張の地石碑「国吉城見張之址」碑
主郭部には入口に相当する虎口が北、東、西の3ヶ所に設定されていました。北側の虎口は内側から見て左側の土塁を幅広くしています。東と西の虎口は向かって右側の土塁を幅広くして、食い違いを意識した造りとなっているようです。
現状で約1mの高さを維持しています。主郭部は前にも指摘したように、南北に一段、段差があって、北側が低くなっています。この様子から、主郭部では2区画に区分して使用していたのかも知れません。

11主郭部南東端堀切(南から)主郭部南東端堀切(南側から)
南東隅に細長く張り出した曲輪があって、その先は堀切で遮断されています。この曲輪にも西側に土塁が築かれています。
一方、南西側の痩せ尾根には主郭部の直ぐ下に堀切があって、その先はだらだらと10~15mほどに渡って平坦部が続いています。

14主郭部西側土塁主郭部東側土塁
朝倉氏が国吉城を攻撃するために築いた、と言われる割には越前国内における朝倉氏関連の山城とはあまり似ていないなァ、というのが第一印象です。

15主郭部西側土塁、虎口主郭部西側土塁・虎口
これは城の縄張り図からでもおおよその見当は付くのですが、実際に歩いてみてやはり、その思いを強くしました。
他にこの城に上った研究者の方の意見では、朝倉氏の築城技術は戦国時代においてはとても進んでいて、いろいろな城郭を築いていただろうとし、京、山城や近江での、朝倉氏が関わった城郭について精緻な比較研究の論稿が出されているほどです。

16主郭内北東側虎口主郭部北東側虎口
その点で言うと、城歩きマンには近江の田上山城や賤ヶ岳砦、山本山城などによく似ている、という印象を受けました。
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