伊勢の城めぐりの旅(長島城)

平成28年2月21、22日(日、月)の2日間三重県桑名市、亀山氏、津市、鈴鹿市の山城、平城の見学を実施しました。目的は福井新聞社の「ふるさと歴史講座」の現地取材を兼ねた城めぐりでした。
三重県北勢の城館めぐりの旅(位置図)
1伊勢の城めぐりの旅(揖斐川下流)県道613号線から長良川河口堰をのぞむ

「ふるさと歴史講座」は1月、2月と一向一揆や柴田氏に関する話が中心になっていて、どうしても三河の一向一揆や長島一向一揆のことが出てきますので、前から一度は現地を見ておきたいと伊勢までやってきました。

最初の訪問地は桑名市長島町西外面にある長島城跡です。
2伊勢の城めぐりの旅(長島城説明板)長島中部小学校の校庭に立てられた説明板
長島の一向一揆の舞台となった長島城跡は現在長島中部小学校になっていて、遺跡の痕跡を窺うことはできませんが、近くの蓮正寺山門として移築されているという大手門や、もとは長島城の北(現在は揖斐川の流路)にあったという願証寺の境内に立つ一向一揆の殉教の碑をみると、当時の織田勢力と本願寺勢力の火花を散らした壮絶な戦いの様子が思い浮かべることが出来ます。

3伊勢の城めぐりの旅(長島城老大松)小学校玄関前に今も聳え立つ老松
小学校の校庭には何本もの黒松が植えられた利ましたが、その中でひときわ大きな黒松の大木が西端に立っていました。
説明板を読むと、長島城の本丸御殿に当時から生えていた老大松だと伝承されているようです。

4伊勢の城めぐりの旅(蓮正寺の門)長島町市街地にある蓮正寺と大手門
長島中部小学校から少し東へ住宅街をすすむと、約300m北東方角に蓮正寺があり、長島城の大手門とされる山門が残されて建っていました。
さらにここから国道1号線を挟んで東には本願寺と結んで信長に対抗して戦った願証寺の、移転・復興された坊院が水田中に建っていて、国道からでもすぐに発見できるほど目立つ存在の建物でした。

5伊勢の城めぐりの旅(願証寺)田園中にしっかりとその存在を見せる願証寺
織田軍と戦った元亀・天正年間には長良川、揖斐川の河口付近にあって、もとは七つの島からなっていた中州でしたが最初の城主伊藤氏から願証寺・長島城に拠った一向一揆勢力によって、城郭が大きく整備されひとつの防禦構造に整えられたものと考えられます。

1号線沿いにあるコンビニに車を停めて、願証寺周辺を散策しようと歩き出したのですが、冷たい風が吹きつけて体もかじかんでしまい、晴れてはいましたがとても風情を感じる、という心境にはなれませんでした。
現地に立ってみて、当時ここが揖斐川や長良川の河口に散在していた中州の島々だったとはとても想像できないほど田園化された静かな佇まいの長島町でした。
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COMMENT 6

怜の父  2016, 02. 25 [Thu] 12:43

いつも楽しみに拝読しております。

地元、福井出身の辻川達雄著「織田信長と一向一揆」という本を最近読んだのですが、越前一向一揆は加賀や長島の一向一揆とはやや違った展開をみせたらしいですね。
しかし長期的に織田軍を苦しめた長島一向一揆とは、興味深いですね。

前回のブログに掲載されていた講習会、次回も開催されるのであれば是非参加させて頂きたいのですが、会員以外でも参加できるのでしょうか?会員にもなってみたいのですが。

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城歩きマン  2016, 02. 26 [Fri] 08:31

No title

怜の父さん、コメントありがとうございます。

参加ご希望の講習会は若越城の会のものと、小生が福井新聞社文化センターで実施している講座とふたつあります。どちらをご希望でしょうか?

若越城の会は、特に会員だけという縛りはありませんので、希望があればぜひご参加ください。但し、総会や安芸の県外研修旅行は会員を通じての参加ということになります。

詳しくは城の会の事務局までお尋ねください。

福井新聞社の講座のほうは、これもどなたでも参加いただけますが、文化センターで講座生の受付、会費を納入、という手続きが要ります。こちらは福井新聞文化センターへお尋ねください。

城の会のほうは3月の20日(予定)に現地見学会ということで、旧伊吹町の上平寺城跡に登城します。現地の調査員の方がご案内下さるということで、大変楽しみにしております。ぜひ、ご一緒できればうれしいです。

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怜の父  2016, 02. 26 [Fri] 23:49

ありがとうございます。

福井新聞で問い合わせしてみます。

3月20日、全力調整します。
上平寺城は2度訪れてますが、現地の人に案内してもらえるのは凄く楽しみです。
よろしくお願いします。

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midorishako  2016, 03. 06 [Sun] 08:18

長島一向一揆

三重のお城めぐりご苦労様でした。
長島の一向一揆は、おそらく信長包囲網の中で、本願寺側が計画的に戦いを進めたものと思います。しかし、最後凄惨な結果になりました。長島城などに閉じ込められ、飢餓や水死、焼身、戦闘などで老若男女およそ2万人の人が亡くなりました。
コメントのなかで越前の一向一揆と異なるとありますが、越前でも信長によってたくさんの人が殺されたと聞きますが、どのようだったのでしょう。よろしかったら、教えてください。

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城歩きマン  2016, 03. 07 [Mon] 08:53

No title

midorishakoさん、コメントありがとうございます。

三河の一向一揆、長島の一向一揆、そして越前を含めた北陸の一向一揆は戦国時代の宗教戦争とでもいうべき、規模の大変大きな戦いとして歴史上重要な要素を占めています。

そしてそれぞれの戦いは、石山本願寺という司令塔が介在していることで共通性もありますが、勃発した要因や、戦いの経過にはそれぞれの個性があって、特質ともなっています。

そこが歴史のダイナミズムであり、歴史学者さんたちを惹きつけるもととなっているのでしょう。

越前の天正2年の信長らに対しての一向一揆は、直接には本願寺からの蜂起の指令によるものではなく、本願寺勢力に無条件に従わない地元信徒らの別の動きも絡んでいた、という見方があるようです。

その意味で三河や、長島のものとは異質な部分が見えてくるのでしょうか…。
それにしても、もっともっと一揆の歴史は深めていく必要がありますね。

怜の父さんはどのように思っておられるのでしょうか―。

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怜の父  2016, 03. 07 [Mon] 21:10

私は山城探索と歴史(主に戦国史)は大好きなんですが、歴史の深い部分については無知でありまして、あまり自分自身の意見というものは持ってないんです。
読んだ本をすぐ鵜呑みにしてしまうので、自分でも困ってます。
越前の織田家に対する一揆は、元は朝倉旧臣の権力争いが発端になって、その一方で本願寺本部と地元大寺と最下層の戦闘部隊との思惑の違いによる内紛によって、泥沼のようになっていたように理解しました。
純粋に宗教の為とか自治を勝ち取る為とかではなく、それぞれの立場による目的の為に戦って、一枚岩で織田家に当たった訳ではなかったのであっという間に滅んだのではないでしょうか。私の先祖も一向宗徒なので、当然当事者だったのでしょう。
あまり一向一揆に関する事は触れられないように思えます。

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