奈良県中世山城にみる畝状連続竪堀

若越城の会で11月に見学する予定となっている奈良の中世山城、および近世の城についてあれこれ調べたり、実際に登ってみたりしていて、とても考えさせられることがありました。
とくに中世山城については、この道の権威である村田修三さんが、むかしいろいろ発言されたり、書物に書かれたことがあって、そうした研究の対象になっている城にも上ってきました。大変勉強になりました。
奈良には近世以降の石垣や天守閣を備えるお城は数えるほどしかないのですが、中世の山城や、平地部に作られた館や環濠の城跡はそれこそ無数といっていいほどあって、とても短期間のにわか勉強では把握できませんでしたが、確認できる山城の中で、いわゆる畝状連続竪堀をもつものがそこかしこにいっぱいあって、村田さんがかって提唱された、その起源というか、発生の年代を天文・永禄年間頃とされた理由がおぼろげですが、城歩きマンにも分かってきました。
村岡山城の畝状連続竪堀村岡山城の畝状連続竪堀
大和4家と言われた筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏らが成長し、大和の覇権を争うなかで周辺からの外的との戦いが最も熾烈を極めた時期が、この天文・永禄年間から天正年間をピークとする時期でした。この時期に二上山城、万歳山城、布施城、椿尾城、龍王山城、秋山城等々が相前後して築かれたのです。
そして、ここからが肝心なのですが大和郡山城、高取城、宇陀松山城(秋山城)の3城を残して、他はほとんど天正8年の信長の廃城令によって城割されている。ここから畝状連続竪堀の発生を天文・永禄頃とする考えが導き出されたのでしょうか?いまはこの考えは限定的なものではありませんが、全く否定しされるものでもないと思います。
山城のどの部分に、どのようにして築かれたのか、その形状は城歩きマンが北陸や、その他の地域で見てきたものと違っていることはなく、個別の事情によって、そのつど形成された結果のものである、との考えをより強くもつようになりました。畝状竪堀は大和の場合も天文頃から造られ始めて、元亀・天正までさかんに用いられた山城の技法の一つだったと思われます。
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