源範頼伝説について

源範頼伝説について

ブログへの質問にお答えします

朽飯町八幡神社2016年6月10日(4)
先日、福井新聞の文化センターから問い合わせがありました。
要件はブログの内容に関することで、福井新聞文化センターで実施している「ふるさと福井の歴史と文化財にまなぶ」講座を紹介したことがあり、その中にあった「源範頼の居館跡」について訊ねてきた人があったので、出来たら対応してください、ということでした。
わざわざご質問をいただき、ありがとうございました。

朽飯町八幡神社2016年6月10日(1)
それは2013年5月15日にアップした記事で、『福井の平安鎌倉時代の城館分布について』と題して概略を触れたものでした。ちょうどこの講座が2年目に入り、ガイダンスの後の第1回目の講座(越前・若狭の鎌倉時代)について内容を紹介するなかで、平安時代から鎌倉時代にかけて県内で知られる城館跡はどれくらいあるのか、いろいろな記録や資料をもとに地図上にドットリングしてみました。

問題は、その中の旧今立町(現越前市)朽飯にある「朽飯(くだし)館」は源範頼が隠棲していたとの伝承がある居館跡ですが、そのことについて詳しいことが分からないか、とのことでした。



問合せは地元の方で、朽飯の八幡神社の関係者に聞いても範頼の屋敷跡があったとは知らなかった、と言われたそうです。実際、屋敷があったというのはどんな根拠に基づいているのか教えてほしい、ということでした。

そこで、基本的な出典は『越前国古城跡幷館屋敷跡』(略称『越前国城跡考』)という松平文庫本の中の古文書に載っているものですと答えました。
この文書は時の福井藩主松平吉邦の命で編まれた編纂書で、越前国に残る古い城館跡を悉皆調査したものです。その中に源範頼の館跡が記されています。文書が編まれた時代は寛文8年(1668)とも享保5年(1720)とも言われています。

また『福井県の地名 日本歴史地名大系18』(平凡社刊)の394頁「今立郡、朽飯村」の項にも同じような説明が書かれています。

『越前国城跡考』には
“館跡 蒲冠者範頼 朽飯村の内にあり、当時八幡社これあり、自福井五里余”
とあります。

朽飯町八幡神社2016年6月10日(2)朽飯八幡神社拝殿
範頼は遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったので、蒲冠者と呼ばれたそうです。範頼は成人の後、源頼朝の挙兵に従い源義仲を破り、義経とともに一の谷の戦いで平氏を討ち、次いで九州に遠征し、平氏の滅亡後もその地にとどまって経営にあたりました。しかし、頼朝と不和になり、伊豆の修善寺で処刑されました。義経同様、なんとも悲惨な兄弟仲ですが、伊豆で処刑されたはずの範頼が、実は生き延びて、妻の日吉御前のゆかりの越前に落ち延びて隠棲していたという伝説が生まれました。

なんとも見てきたようなお話です。この話は範頼、とまではいかなくても妻や子は落ち延びていたかもしれないことは一分の可能性はあるように思えます。
城歩きマンはこのお話を素直な意味で信じたいと思います。伝承や伝説は一旦否定してから考える、というのが学者のスタンスらしいですが、火のないところには煙は立たないから…、というのが城歩きマンの信条です。

朽飯町八幡神社2016年6月10日(3)朽飯八幡神社裏の八幡山(向かって右、標高229.1m)
鵜甘神社に残る北条時頼(最明寺時頼)伝説もそうですが、将門伝説や義経伝説と一緒くたにして否定し去るのには、あまりに現実味があり捨てがたいと思うのです。
朽飯の八幡神社の裏山には堀切を数ヶ所穿って曲輪を構築している山城があって、麓の神社の居館跡とセットで考えることが出来る遺構群だと思われます。鎌倉時代のものか否かは発掘調査を経ていない現在、如何ともしがたいところがありますが、県内各地に残る中世前期(鎌倉~南北朝期頃)の城館跡についてもっと立ち入った調査が必要なことは論を俟たないとも思われます。
調べる気になれば、それこそいろいろ追跡材料はあるのですから…。
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