明智光秀館跡と西蓮寺について

明智光秀館跡と西蓮寺について

1.明智館跡
東大味町明智神社他2016年6月10日 (7)
旧今立町の朽飯館跡(八幡神社境内)を訪ねた後、帰りの途で東大味に立ち寄り、ひさびさに明智館跡を見学しました。



むかし、東大味には朝倉街道の大手道を確認する調査のために何度も来ていながら、明智館跡の現地には立ち寄っていませんでした。遠くから、あの辺りだね、と見当をつけながら、いつかきっと見学してみようと思っていました。

東大味町明智神社他2016年6月10日 (1)
今立の帰りの途、お昼時でとても蒸し暑い日でした。しかし、そんなことはあまり気にもかけず、案内板に従って村道を歩き、明智神社跡とされる一角へ辿りつきました。むかしは田んぼの中だったと言いますが、今は村の真ん中で、廻りは住宅が建て込んでいて、車で通るだけでは表示を見落としてしまいそうな場所でした。

もっとも車を停めておくような空き地は近くになかったものですから、村の入口の公民館駐車場まで戻って、車をおいてからもう一度歩いて神社まで歩くことにしました。

明智光秀居館跡明智光秀居館跡推定範囲(グーグル地図を一部改変してコピーして貼りつけました)
この場所は朝倉氏の時代に屋敷を宛がわれて明智光秀さんがしばらく住んでいた場所と推定されています。やはり、百聞は一見に如かずの言葉通り、実際に現地に立ってみると受ける印象が変わってくることを改めて感じることが出来ました。

神社は小さな祠が西向きに据えられていて、入口には資料館、と称する倉庫代わりの小屋が建っていて、壁には明智光秀さん関係の写真パネルが所狭しと飾ってありました。そして小さなテーブルの上に、明知神社の由来を書いたリーフレットが置かれていましたので、一枚いただいて帰りました。

2.西蓮(さいれん)寺

東大味町明智神社他2016年6月10日 (2)山門(手前)と本堂(奥)
西蓮寺は天台宗真盛派をおこした真盛上人によって、延徳2年(1490)に開かれた古刹で、天正3年(1575)の年号をもつ柴田勝家さんの文書(判物)など3通を所有していることでも知られています。

寺の境内には戦国時代を中心とした時期に制作されたものと考えられる石塔が数多く残されていて、静かな雰囲気の中にも戦国時代から連綿と続く歴史性をとても感じさせてくれる佇まいでした。

東大味町明智神社他2016年6月10日 (3)境内に並ぶ石塔群
西蓮寺には勝家さんが出した文書が残っている、と言いましたが、その中身は「寺の山林竹木については従前通り認める、また檀家のものは戦乱が終わったので、早く避難先から帰って、従前の生活に戻りなさい。もし、誰かが無理、難題を言ってくるようなら通報してきなさい。断固たる措置をとるから。」というようなものでした。

この文書が出されたおかげか、寺は北ノ庄に引越しせず、また村の人たちも無事に暮らすことが出来たと言い、その陰には光秀さんの配慮があったからだとしています。明智神社の祠は明治19年に、屋敷があったと言われる敷地内の一角に建てられ、その菩提を弔う祭礼を続けていましたが、主君を寝返ったという汚名から避難・中傷が絶えなかったと言います。

東大味町明智神社他2016年6月10日 (4)西蓮寺手前の県道から三峰城跡方面を望む
最近になってその歴史的評価を見直そうという動きが出てきて、東大味地区は全村挙げて「明智神社奉賛会」を立ち上げ、毎年命日の6月13日に法要を行っていると言います。

東大味町明智神社他2016年6月10日 (6)
東大味町明智神社他2016年6月10日 (5)一乗谷上城戸へつづく大手道(中央の凹み)
ここまで来たら、後は旧朝倉街道大手道、鹿俣越えを通って一乗谷を見ることにしましょう、と思い車を東に向けて進めました。
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