「岩佐又兵衛展」を見学して(2)


又兵衛展チラシ(裏)より「岩佐又兵衛展」チラシ(裏)より
城歩きマンが気を引かれるもう一つの理由は、なぜ又兵衛が越前にきたのか、ということ。
はっきりとした記録にはないのですが、かの2代目の福井藩主松平忠直公が招聘したとも言われていて、又兵衛は忠直公のために『山中常盤物語絵巻』や『堀江物語絵巻』、『上瑠璃物語絵巻』などを手がけました。約20年間もの間、又兵衛は越前において絵の創作活動をフル回転させますが、なぜ、都会の京都ではなく、「田舎」の越前だったのでしょうか?

今朝(8月12日、金)の福井新聞社説欄に、県立美術館での「又兵衛展」の解説が載りました。そこではわざわざ、福井にやってきた理由は豊臣残党狩りから逃れるためだったと指摘しています。とてももっともな理由で、非常に現実的です。
しかし、城歩きマンは、又兵衛が越前にわざわざ下ってきた間接的な動機は、きっと、又兵衛自身の中に絵を極めてみようという野心があったからだと思われます。

越前は、その昔、朝倉氏が領知していた頃(特に三代貞景の頃)には京都からお公家さんやお坊さん、いわゆる文化人、芸術家たちが頻繁に出入りし、また朝倉氏一族、貞景自身も絵や書には強い関心をもっていたと言われています。
かの曽我蛇足(じゃそくと読むそうです)をはじめとする曽我派の拠点が一乗谷にあったということはよく知られていますが、一つの文化活動の拠点が一乗谷にあったという当時の事情を、又兵衛も成人するまでの間に見聞きして知っていた、ということが十分に想像されるのです。
国宝にまでなった又兵衛の『洛中洛外図屏風』にしても、京都時代に描いているようですが、こうした屏風絵を最初に作らせたのは一乗谷の朝倉貞景であり、請け負った絵師が土佐派の重鎮、土佐光信だったということ、そして又兵衛が学んだ土佐派の描写方法とはどこかで繋がりがあったはずであり、かつての越前、また一乗谷の魅力に惹かれるものが多く心中に内在していたのではないかと想像されます。

又兵衛が京都から越前に移ったのは元和2年(1616)頃と言われていますので、朝倉氏が滅びてから既に43年も経っていますが、柴田勝家の後、城主が頻々と入れ替わり、6人目の青木一矩が関ケ原の戦いで西軍に属して失脚した後、結城秀康が68万石を領して越前に入部。
大坂の陣ではその息忠直公が夏の陣で一番乗りをした、とかいう華々しい話題がもてはやされていた時期であり、北陸の一大中心地としての華やぎが香り立っていた時代、又兵衛が都落ちしてくるには何の抵抗もなかったのではないかと思われるのです。とかく謎の多い又兵衛の生い立ちではありますが、荒木村重の息であった、とかいうドラマチックな話よりも、ひとりの絵師としての心意気がとてもよく感じられる又兵衛に城歩きマンは惜しみない拍手を送り、里帰りを歓迎します。
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