若狭町堂谷山城の見学について

若狭町気山 堂谷山城跡の見学について

堂谷山城の見学チラシ
若越城の会では来る9月25日(日)若狭町気山にある堂谷山城跡を見学する予定になっています。
これは美浜町の国吉城歴史博物館が平成28年度の講座として取り組んでいる山城見学の一環で、城の会がこれに相乗りさせていただく形で呼びかけるものです。


堂谷山城は帰山と生倉の中間に位置する独立丘陵(標高134.6m)の山上に所在します。若狭の倉見庄を支配した熊谷氏が倉見城を居城としていましたが、堂谷山城については、その築城主は不明で、つい最近まで発見されずにいました。地元の人によって発見され平成元年頃に(故)大森さんたちが現地を詳しく踏査し、縄張図を作成しました。

大森さんは若狭の山城研究の第一人者だったのですが、著書で提示している縄張図によりますと、南東方向に延びる支尾根の約400m先に三重の堀切で防禦された出曲輪が位置し、主郭に続く尾根線はびっしりと階段状曲輪で埋められています。

主郭部には幅の広い土塁が馬蹄形状に南に開くように築かれ、一段低い部位には西側と東側に虎口状に開く入口が設けられています。
主郭の周囲に築かれた土塁囲みの帯曲輪は北と東で大堀切によって遮断され、さらに西側の土塁下には空堀(横堀)も一部掘られていて、万全の防御体制となっています。

大森さんは「きわめて企画性の高い城郭で、近世の移行期の縄張りを見せている」というような性格付けを行っています。

天正10年(1582)の信長の討死以後、秀吉と勝家の仲が険悪となり、一触即発の情勢の中で、秀吉方に属していた丹羽長秀さんが若狭衆に動員をかけ北国警固のために、後瀬山城はもとより、新たな城普請を命じました。(北方博物館所蔵文書)
堂谷山城はその前線基地的な意味合いをもって築かれたのではないかとしています。

大森さんが特に注意しているのは主郭部の回りにたくさんの石が散らばっていることで、恐らく主郭やその周りの曲輪の土塁に石垣を葺く予定だったのが、何かの都合で未完成のままに放置されたとしていることです。

堂谷山城にはいくつかの縄張上の問題点が存在し、若狭やその周辺の城郭の在り方を考えるうえで大きな示唆を与えてくれています。ぜひとも登城を実現し、若狭では「きわめて企画性の高い」堂谷山城の魅力を満喫してみたいと思います。
皆さんもぜひご一緒に!
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