飛騨市神岡町高原諏訪城跡の踏査

江馬氏下館跡の見学の後、東南の方向にある標高619.5mの丘陵頂部の高原諏訪城跡に登城しました。

地図だけを頼りに踏破しようという、ちょっと危ない計画ですが、こんなことは山城踏査にはつきものでこれを渋っていては登れる山も見過ごしてしまう…。

高原諏訪城(ブログ用)高原諏訪城の入口(林道わき)
というわけで、工事用に作られたと思われる林道を何とか車で登ってみました。高原諏訪城は貯水ダムの工事のために付けられた道路だと思われるのですが、地図で確認すると城跡の北側裾ギリギリまで廻り込んでいます。
その道を何とか走って入口近くの幅寄せスペースの道のわきに車を停め、そこからは徒歩で尾根線伝いに城跡を辿りました。

城跡はあたかも一乗谷城の一ノ丸から三ノ丸に向かう尾根線のようで、細い山径に土塁が並行して延びていました。尾根線上に造られた典型的な連郭式山城だと思われます。
堀切も明瞭に、深く掘り込まれていてわかりやすかったです。主郭部北側は竪土塁状に長い曲輪があって、これも一乗谷城の一ノ丸と印象が似ていました。

高原諏訪城『日本の城――江馬氏下館』デイアゴスティーニ社刊より引用、一部改変しました)
惜しむらくは城跡の整備が滞っているようで、城の回りは下草や灌木が背丈ほども生い茂り、城跡の遺構状況を見学するにはつらい状況でした。本丸の隅に公衆トイレが建っているようだったが、これも草が生い茂り、近づくこともできませんでした。


奥美濃や飛騨には畝状竪堀をもつ山城が多数確認されている昨今ですが、今回踏査した高原諏訪城は江馬氏の詰城として築城されたものですが、天正10年(1582)信長の死後、織田方だった姉小路(三ツ木)氏と上杉方だった江馬氏との間で戦いがあり、江馬氏は敗北して北飛騨を追われます。この時の三ツ木氏が築いたとされる城には畝状竪堀が多く確認されていますが、高原諏訪城には確認されません。

畝状竪堀はこの時の戦いで用いられたのではなく、三ツ木氏が飛騨に侵攻してきた金森長近との間の戦いのときに用いたという解釈もなされています。
いずれにしても誰が、いつ、どのようにして用いたのか、畝状竪堀の採用には山城攻略の重要な契機が隠れているような気がします。
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