岐阜県尾崎城の踏査

尾崎城からの遠望尾崎城山頂部(主郭より市街を望む)
平成22年(2010)7月、山梨県石和町にある帝京大学山梨キャンパス考古学研究所でシンポジウムがありました。しばらくこのシンポにはご無沙汰していましたので参加することにしました。
その年のテーマは「中世はどう変わったか」というもので、今まで約25年以上も続けている中世都市史と考古学に関するシンポジウムの、中間総括のようなタイトルで問題提起と事例報告が行われました。


今回、このシンポに参加したことで多くの収穫があったのですが、せっかく山梨までの遠出の旅なので、ついでに帰りの足で岐阜県内の畝状竪堀をもつ山城の踏査第2回目を実施することにしました。前年にも奥美濃や北飛騨に行っているのですが、今回は南飛騨、高山市周辺の山城の踏査を実施することにしました。

中央自動車道の岡谷JCTで長野自動車道に乗り換え、松本で国道158号線に入り、一路西へと向かいます。途中、安房峠を超える難所がありますが、時間を考える必要のない旅ですから、ゆっくりと周りの景色を楽しみながら走りました。

問題の安房峠、平湯トンネルを超えるとその麓はもう高山市です。手前の丹生川町にある尾崎城跡をまず最初に踏査です。
尾崎城は天文年間(1532~55)に塩屋秋貞によって築かれたとされていますが、塩屋氏の城は飛騨から越中にかけていくつも築かれています。塩屋氏は飛騨から越中をまたにかけて動いていた戦国武将だと思われます。永禄7年(1564)に信濃の飯富(おぶ)昌景に攻められ、尾崎城を追われました。

丹生川町尾崎城跡(高山市HP)より尾崎城跡主郭部(高山市HPより引用)
尾崎城は、現在、高山市に編入されていますが、丹生川町段階の平成6年から10年にかけて五カ年計画による発掘調査が行われました。
この調査で出土した遺物の検討から15世紀を中心に機能していた城跡であったと考えられ、遺構から検出された焼土によって、ある時期に火災を受けていることも判明しました。このことから、塩屋秋貞がこの城を築いた時期より前に、拠点的な施設(山城)がこの城跡に造られていた可能性が示唆されています。

城跡の中央部は公園整備のために削平され、多くの遺構が追跡困難な状況に置かれていますが、周囲の斜面に構築された畝状竪堀はおおむね旧状をとどめて遺存しているものと考えられます。

岐阜県尾崎城跡尾崎城跡遺構測量図(旧丹生川町教育委員会発行報告書より引用、一部改変)
調査の後、都市公園として整備され、道もしっかりつけられていましたので、城跡まで乗り付けることが出来ました。トイレや案内板も完備され、遺跡の散策には申し分のないところですが、惜しむらくはこの城跡の特徴の一つである畝状竪堀を見るのに、斜面を降りて確認することが出来ないことでした。山歩きの装備をしていない状態ではとても歩けるような状態ではなく、ササやイバラの蔓が生い茂っていて、見通しも利かずほとんど不可能でした。丹生川町が発行した報告書の測量図を見ますと、畝状竪堀の数はおおむね40条と思われます。それらの畝状竪堀は西側の曲輪の周囲に集中していて、この西側曲輪の方角が搦め手にあたるのかな、と想像されます。
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