高山市国府町広瀬城跡の踏査

広瀬城遠景広瀬城跡遠景(北東から)
広瀬城は高山市国府町名張字上城山にあります。城山の丘陵裾から北には国道41号線を挟んで宮川が流れ、さらにその北にJR飛騨国府駅があります。


このあたり一帯は古川盆地の中央に位置し、広瀬郷を中心に勢力を張っていた広瀬氏が広瀬城を築城したと言いますが、詳細は不明です。天正11年(1583)広瀬氏は高山の松倉城主三ツ木自綱によって滅ぼされ、天正13年(1585)金森長近が飛騨に侵攻した際には三ツ木氏がこの城に居城していましたが、金森氏の攻撃に屈し、城を抜けて京都に落ち延びたと言われています。

広瀬城は三ツ木氏の家臣、田中筑前守が城代としてこの城に詰めていたところから別名田中城とも呼ばれています。

広瀬城案内板広瀬城跡案内板
広瀬城は岐阜県文化財保護センター飛騨支所の裏山にあたり、標高は622mです。比高差は200mを超えますが見学路もあり、山頂部までは徒歩約20分のコースでした。登城の前に岐阜県文化財保護センター飛騨支所に立ち寄り、Oさんから登城の道順をきいて、緩やかな谷筋の登城路をゆっくりと登って行きました。

最初に辿りつくのは、先ほどの「田中筑前守」の供養塔で、その先は急登を登り切ると馬場跡、二の郭跡に出ます。馬場跡には西側斜面の畝状竪堀が連続して並び、北側の先端部に回り込んでいます。この畝状竪堀は馬場跡を取り囲んでいた腰曲輪をつぶして刻み込んだものと思われます。

広瀬城跡遺構模式図国府町教育委員会発行模式図より
主郭下の畝状竪堀は、曲輪の裾に直接刻み込んだもので、やはり傾斜面をつぶして防御ラインとしたものと思われます。
同様に東の曲輪でも同じことが指摘できます。東の曲輪の上位には西の曲輪があります。この曲輪のほうを主郭とみる考えもあり、正確が定まっていないようです。

西の曲輪の東側斜面裾には3段の段曲輪が並んで東曲輪につながっていますが、この段曲輪には石垣が積まれているのが確認されます。考え方によっては、三ツ木氏のあと、この城を落とした金森氏が修築を加えた可能性が考えられます。

この城の構えは畝状竪堀の配置などから見て、北側谷筋に対する防禦がきびしく、南側斜面は傾斜角が強いところから、自然地形そのままとしている風が感じられます。広瀬城は宮川の支流瓜巣川の左岸の丘陵頂部にあり、飛騨街道をにらんで、高山方面に対する要の城であったことは一目瞭然です。

この城跡も畝状竪堀が大きな特徴で、本丸、三ノ丸、馬場跡などの曲輪の周囲に見事な畝状竪堀はとても見ごたえがありました。
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