勝山市村岡山城跡の踏査

平成22年(2010)7月18日(土)勝山市村岡山城跡を踏査しました。

14村岡山城遠望(南から)村岡山城跡遠望(南から、手前は九頭竜川)
村岡山城跡はむろこやま、と呼びます。とても親しみやすい、やさしい呼び名になっていて印象深い山城の一つです。この山の別称は御立山です。この場合はおたてやまでしょうか。


「御立山」と呼ばれた理由は、近世小笠原氏の勝山藩になって、この村岡山が藩領とされ、入山して狩猟をしたり、立木の伐採をしたりすることが禁じられていたことによります。

9村岡山城から恐竜博を望む村岡山城から恐竜博物館を望む(中央の銀色の丸い建物)
村岡山城は標高301mの小高い独立丘上に所在します。四方からも見分けやすい位置にあって、目立つ存在の山です。本城は、最初、天正2年(1574)一向一揆の軍が平泉寺に立て籠もっている朝倉景鏡の軍と戦うために築いたと言われています。

10村岡山城から勝山市街を望む同、勝山市街を望む
そして、翌年の天正3年には織田信長が越前の再侵攻を行い、一向一揆軍のせん滅を企てました。一揆の拠点の一つであった勝山北袋を攻撃するため柴田勝家は一族の武将、柴田義宜を勝山に送り、村岡山に本格的な城郭を築き、勝山盆地一帯を支配する根拠地としました。

しかし、義宜は同5年(1577)勝山の谷城に立て籠もる一揆軍を攻撃中に戦死してしまいます。そこで勝家は、一族の柴田勝成(三左衛門勝政)を再び村岡山に配置し、一揆軍の掃討に勢力を注ぎ込みました。ようやく7年(1579)に勝山北袋一帯の一揆軍が鎮圧されたと言います。従って、この村岡山城は一揆軍と柴田勢によって、何度か修復、増築が施された山城ではないかと考えられます。

12村岡山城本丸の堀山頂部主曲輪の堀(東側)
山頂部の東西約270mの範囲に曲輪が連続して並び、主曲輪とみられる方形の曲輪には堀、土塁が廻っています。そこから東側に土塁囲みの不整形な曲輪が3ヶ所連なり、南東端、東端部の斜面にはそれぞれ畝状竪堀が施されています。
しかし、これとは対照的に西側半分の曲輪5ヶ所には堀切で遮断している以外には、土塁や畝状竪堀で曲輪を防禦しようという造作は見られません。

11村岡山城本丸と堀同、主曲輪南東側の土橋と堀
すでに指摘されているように、この山城は東西で城普請に時期差があって、当初、連郭式の山城であったものを、東側部分に大きく手を加えて、土塁囲みの城郭に改修したものと思われます。
そうすると、畝状竪堀はどの段階のものか問題になります。柴田氏によるものでしょうか?それともそれ以前の一揆勢によるものでしょうか?

この問題は、織豊勢力は畝状竪堀を用いなかった、という先入観を捨ててかからないと解決できないもののように思われます。
そんなことをアレコレ考えながら、この山城へは単独で村岡山小学校の脇から直登で上りました。他にも東側を通る勝山街道、いわゆる国道157号線の山麓部から登るコースもありますが、今回は大手道とされる南側山麓部から登城することにしました。

13村岡山城畝状竪堀同、東端部斜面の畝状竪堀群
ジグザグに何回か折れ曲がる急傾斜の道を、約40分ほどで登りきると、ちょうど主曲輪のある中央の平坦地に出ます。

そこからは勝山市の市街が一望に見渡すことが出来、後ろを振り返れば県立恐竜博物館も見通せて、絶景の眺望です。夏の暑い一日でしたが素晴らしい景色にしばし見とれてしまった城歩きマンでした。
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