新潟県下越地方の城館めぐり(2)

①2016年10月17日下越城館めぐり(米山SA)北陸自動車道「米山サービスエリア」
平成28年10月17日(月)、午前7時過ぎに自宅を出発。念願の新潟県北部への城館めぐりの旅が始まりました。
しかし、天候は曇り、明日も曇りまたは雨の予報。前日までは北陸地方や新潟方面の天気は素晴らしくよかったのに…、と思い通りにいかない自然の移ろいに恨めしく感じながら、車に乗り込みました。

②2016年10月17日下越城館めぐり(米山SA)サービスエリアの脇に立つ芭蕉の句碑
北陸自動車道は月曜日だったせいもあって、ずっと空いており流れはとても順調でした。北陸自動車道のむこうに接続している「日本海東北自動車道」朝日三面インターチェンジまで、総延長約432㎞です。所要時間はざっと5時間半。朝7時に出たのに、着くのはお昼過ぎか…、とブツブツ言いながらも、とにかく走らねば何処にもつかない、と言い聞かせて運転に集中しました。

③2016年10月17日下越城館めぐり(大葉沢城跡) (1)大葉沢城跡遠景(西から、手前の山並み)
お昼は新潟の手前、米山サービスエリアでカレーライス。
食後にまわりの散策。どこも同じですが、緑地公園ふうに整備されて、遠くには日本海が望める視界良好のサービスエリアでした。
ふと、前方の木立のなかを見ると石碑に松尾芭蕉の俳句が刻んでありました。
「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」
日本海側の、特に北陸自動車道や国道などの脇には、これ以外にもいくつか、奥の細道で有名な芭蕉の句碑があるそうです。
今回は日程に少し余裕を持っての旅でしたので、こんなふうにユッタリ俳句を鑑賞することもできました。

④2016年10月17日下越城館めぐり(大葉沢城跡) (12)大場沢集落入口にある説明板
米山サービスエリアを出て、さらに北へと真っすぐの道路をひたすら走り続けて、ようやく1時過ぎに村上市朝日三面インターチェンジに着きました。大葉沢城跡はこのインターを出てすぐの東側山付きになります。
大葉沢城は越後の北端、岩船地方の豪族鮎川氏の築いた山城と考えられ、永正9年(1512)に鮎川式部大輔が越後守護代の長尾為景に叛いて大葉沢城に立て籠もった、とあります。


また、鮎川清長は一族の小川長資とともに、宗家の本庄氏が拠る本庄城(のちの村上城)を攻め、本荘房長を出羽に追い落とします。この時は色部氏の仲介によって双方が和睦しますが、永禄11年(1568)、本荘房長の息、繁長は上杉氏に叛いたために鮎川氏は上杉氏とともに本庄城を攻めましたが、繁長は鮎川氏の大葉沢城を逆襲し、一旦は占拠しますが上杉輝虎(のちの謙信)に敗れて失脚します。
鮎川氏は慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封に伴い、上杉氏の被官として大場沢を去りました。
大葉沢城の大きな特徴の一つである畝状竪堀は、東西に延びる長い尾根線の南側斜面に約120mにわたって連続して刻まれています。

⑤2016年10月17日下越城館めぐり(大葉沢城跡) (2)大葉沢城跡の麓にある普済寺(西から)
その状況は畝状竪堀をもつ、どの山城にもみられない圧倒的なボリューム感をもっています。いずれの竪堀も傾斜角が緩やかな斜面、中にはほぼ水平かと思われる空間地に幅2~3m、深さ1~3mの規模で約50条以上刻み込まれています。行けども、行けども畝状竪堀か…、といった態様です。
島根県富田城のすぐ西にある勝山城も、これとよく似た畝状竪堀が刻まれている山城で、東側斜面一帯に、約150m以上の範囲にわたって44条もの畝状竪堀が刻まれています。ある一定方向の斜面に、徹底的に畝状竪堀を刻み込んでいる状況は、大葉沢城と大変似かよった印象を受けるのですが、如何でしょうか?<この項続く>
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