新潟県下越地方の城館めぐり(5)

2016年10月17日下越城館めぐり(村上城跡) (1)村上城七曲り道入口
平成28年10月17日(月)午後1時過ぎ、大葉沢城を下りた後、まだ時間がありましたので宿に近い村上市の村上城を登城することにして、村上市街へ向かいました。


距離にして約7㎞、10分前後で着くことが出来ました。街の入口でガソリンを補給して、いよいよ臥牛山へ。
西側の七曲り道の取っ付きまで車を乗り入れましたが、駐車場らしい場所は見つかりませんでした。入口の城跡階段下まで来て、「駐車場はどこですか?」と横を通りかかった見学者らしい女性に尋ねたところ、「この入口のところのスペースに停めてもいいらしいですよ」とのこと。

さっそく空いている場所に車を押し込んで、いよいよ村上城への登城です。

2016年10月17日下越城館めぐり(村上城跡) (3)山上部四ツ御門跡
村上城はもと本庄城と言います。城が構えられたのは、鎌倉時代の建長7年(1255)畠山行長が新補地頭として武蔵国秩父郡よりこの地に入部したころと考えられ、搭城山の麓に館を構え、苗字も本庄氏と改称しました。搭城山とは臥牛山の古称で、ちなみに村上城は別名舞鶴城とも言います。

2016年10月17日下越城館めぐり(村上城跡) (6)城内に立つ説明板
村上城の前身、本庄城は本庄氏によって長く維持されましたが、戦国時代の天文8年(1539)本庄房長の時、庄内地方への遠征で留守になった本庄城を一族の小川長資が謀反を起こして落城させました。
しかし房長の息、繁長が13歳のころには本庄城を奪還したと言われており、永禄11年(1568)上杉氏との乱に際しては、堅固な防御態勢を整え、籠城戦を戦い抜いたと言います。

2016年10月17日下越城館めぐり(村上城跡) (7)二ノ丸入口の鐘御門跡(見事な内枡形虎口)
翌年の永禄12年に伊達輝宗、蘆名(あしな)盛氏の仲介によって和睦し謙信の配下となります。謙信亡き後は景勝側について武功をあげますが、天正16年(1588)庄内に侵攻し、最上義勝を破って領域内を制圧しましたが、このことで秀吉から私闘を禁じた「総無事令」に反したという怒りを買い、奈良へ蟄居させられます。
その後、慶長3年(1598)村上頼勝が加賀国小松から入部し、城下の整備に着手します。この時には本庄城から村上城に名前が代えられました。
また元和4年(1618)には堀直竒(なおより)が長岡から本庄城に入部し、城内の曲輪に石垣積みを行って近世城郭へと改修の手を加えています。現在の村上城の基礎を築いたとも言われます。堀直竒とは、上杉景勝が会津に移封させられたあとに春日山城に入部した堀監物(秀治)の又従兄弟にあたる人物です。

2016年10月17日下越城館めぐり(村上城跡) (10)出櫓多門跡と並び門(右が出櫓の石垣、左脇が並び門)
七曲りの坂をゆっくりと登っていきますと、四ツ御門跡に辿りつきます。七曲り道と城の反対側の東斜面からの搦手口からの登城道が合流する場所でもあります。入口の右側の石垣は詰石にモルタルを塗りこめたような形跡がありましたが、これはいただけません。平成5年に国指定の史跡になっているようですから、こういうところはきちんと修復していきたいものです。
折しも、城歩きマンが見学した時、山上は修復工事のためのトロッコの線路が敷かれ、いたるところで石垣の積み直しがなされているようでブルーシートが被されていました。
ネットで調べましたところ、村上市が平成12年から改修工事に着手し、27年には完成するとうたっていましたが、まだ続行中のようです。<この項続く>
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