新潟県下越地方の城館めぐり(8)

2016年10月18、19日下越の城館めぐり (平林城跡)編集分 (5)岩館内部と東側土塁
滝矢川が平野に流れ出る小規模の谷部分に築かれた居館群で、範囲は谷出口の幅約300m、奥行きは500mほどになります。整備された場所は滝矢川の南半分で、北側半分は手を付けずに水田地帯となっているようです。

2016年10月18、19日下越の城館めぐり (平林城跡)編集分 (6)岩館と中館の間にある矩折れ土塁
昭和53年(1978)に国の史跡に指定されましたが、その大きな特徴は、前述した中世の地方豪族の居館跡がそっくり山城とセットで残っているという事実にあります。史跡指定になる前の昭和49年と平成11年度以降、継続して遺構確認のための発掘調査が実施されているようです。
遺構の整備は完全ではありませんが、標柱や案内板の設置は十分のようです。
折角の平林城ですが、雨にたたられて十分な観察は出来ません。型どおりに順路に沿って回るだけで精一杯でした。

2016年10月18、19日下越の城館めぐり (平林城跡)編集分 (8)矩折れ土塁と空堀(西から)
遺跡内部は草刈が十分行き届いていないせいか、背丈が延びて表面観察は思うようにいきません。
岩館の奥にある大土塁と称する、矩折れの土塁は見事でした。中館側に空堀があって、その先、滝矢川に向かって延びていき、弁天虎口につながっているようです。

2016年10月18、19日下越の城館めぐり (平林城跡)編集分 (7)中館見学道路に立つ説明板
殿屋敷の空堀が外側に巡っていることから考えて、本来、大手口である弁天虎口から左右に曲輪があって、向かって左が主曲輪、左が二の曲輪、間が三の曲輪だったのかもしれません。
そんなことを妄想しながら、中館の多くの加護山城登山口の標柱のところに出ました。

2016年10月18日19日下越の城館めぐり 035同説明板拡大写真
ここを登れば山頂だナ…、と思いながら登城は断念しました。
2016年10月18、19日下越の城館めぐり (平林城跡)編集分 (11)平林城跡(加護山城跡)への登城道
2016年10月18、19日下越の城館めぐり (平林城跡)編集分 (12)中館東側山付きの土塁と堀
標柱の脇を見やると、土塁と空堀が奥に向かって延びています。中館の山付きは土塁、堀で仕切られているようです。この堀、土塁は岩館の東側や殿屋敷の山付き部にも延びており、この居館部分の北、東、南部分を囲っているのです。東側は滝矢川の侵蝕崖が自然の防御ラインとなっているので、堀、土塁はありません。

2016年10月18、19日下越の城館めぐり (平林城跡)編集分 (9)中館内部の様子
殿屋敷は概ね東西90m、南北約150mの規模をもち三角形の形状を示しますが、南西隅では直覚に折れ曲がって、北へ向かう土塁が確認されます。
表門は南辺側に開いており、堀、土塁が伴います。昭和49年の発掘で門遺構に礎石が確認されたことから、北越後では珍しい遺構とされています。

平林城のうち、麓の居館部をさして館城という呼び方をする場合があります。鳥羽正雄先生の日本城郭辞典にも「中世の土豪がその館に城郭風な防禦施設を施したものをいう」とあります。
この場合、城郭風な防禦施設、という語句がどの程度のものをさすか、ということがとても問題になります。城郭としての防禦施設、と言えば堀、土塁で囲ったものが基本です。その上に見張り台や二重、三重の堀で仕切ったり、大手口、搦手口に石垣を施したり、といった具合でしょうか。

2016年10月18、19日下越の城館めぐり (平林城跡)編集分 (10)中館から殿屋敷へつづく土塁
しかし、たいていの中世の居館にはこうした防禦施設が伴っています。中世の、といった時の中世は戦国時代にかかる直前までを含みますが…。ですから堀、土塁をもたない平入の門を出入り口としている居館、いわゆる築地塀で屋敷を囲っただけの居館というものは中世ではあまりないのでは、と思ってしまいます。

2016年10月18、19日下越の城館めぐり (平林城跡)編集分 (13)中館南東隅の土塁(山城への登城道)
「館城」という語句に、ずっと前から拘っているのですが、わざわざ、館城という言い回しをする必要性はあるのでしょうか、城歩きマンはこの問題にこれからも拘っていきたいと思います。もっとも、館と城をほぼ同じ意味で重ねているだけ、というのなら話は別ですが。
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