越前町栃川の尉ケ峰城跡の踏査

編集_芝山城跡、尉ヶ峰城跡踏査2016年11月2日 003尉ケ峰城跡遠望(南から)
11月2日と7日の2回に分けて越前町栃川(旧朝日町)にある「尉ヶ峰(ジョウガミネ又はウルガミネ)城跡」を踏査しました。

『福井県の中・近世城館跡』によれば、直角に折れ曲がった土塁囲みの曲輪がある城跡として紹介されています。以前から気になっていて、なかなか現地踏査できなかった箇所の一つでした。標高79.6mで栃川集落入り口の丘陵末端部の山上にマーキングがあります。


集落に着いて、しばらく周りをグルグルと車でまわってみましたが案外と道幅が狭く、また、適当な空き地もありません。草むしりをしていたおばさんにその旨を訊ねると、近くに集会場の駐車場があるから、そこに停めてもいいよ、という返事でした。やっとのことで車を停め、いざ、登城開始。

編集_芝山城跡、尉ヶ峰城跡踏査2016年11月2日 006城跡の平坦地(奥に祠堂)
山の斜面は鬱蒼とした竹やぶ。おまけに急傾斜でのぼりは結構きつい。何とか、10分ほどの間ブッシュをかき分けながら登りつめて平坦地に出ました。
20m四方はあるでしょうか、楕円形の平坦地。ここがどうやら城跡のようです。西の端には石の祠が建っていました。何を祀ったのか特に表示がないので分かりませんでしたが、あとで地元の人に訊いたところ、金毘羅さんを祀る祠堂だとのことでした。
周りを確認して、特にどうということもないので奥に続く尾根道を進もうとしところ、一段下に土橋状の遺構が見えます。さらにその土橋から左右に堀が延びているのが確認できました。

下に下りてみると、土橋の右傍らには石地蔵が並んでいるのを発見。5,6体はあるかと思われましたが、みな倒れていました。その地蔵仏を写真にとりながら前方を見やると、アッと驚くものが目に入ってきました。

編集_芝山城跡、尉ヶ峰城跡踏査2016年11月2日 007主郭部の下段にある地蔵仏群
ウネウネと続く畝状竪堀…!

越前町栃川の山城踏査2016年11月7日 (8)同地蔵仏群(横から)
長さは短いが、計5条確認できました。掘方はしっかりとして、遺構の遺存状況はとても良好でした。方角的には平坦部の南側斜面下、テラス状に回り込んでいる帯曲輪に刻まれたものでしょうか。

これは本当に畝状竪堀か?と内心驚きつつ、元の場所に引き返し、今度は反対側の北側斜面に回ってみました。
なんと、ここにも畝状竪堀がウネウネと…。長い竪堀が2本延びていて、その奥にもやはり帯曲輪上の平坦部に刻んだ畝状竪堀が4条確認できる。その奥の西側斜面では2,3段の段曲輪が竹藪の中で確認できました。この段曲輪は最初の登り口の辺りへつながっていくのだろうと想像できました。

編集_芝山城跡、尉ヶ峰城跡踏査2016年11月2日 010主郭部の東側段下にある土橋
城跡の主郭らしい平坦地の、下約10mのところに帯曲輪がほぼ一周していて、この部分に畝状竪堀が刻まれています。南側は短いもので約7mほどでしょうか。反対側の西北側では2段目の斜面で帯曲輪があって、傾斜もきつく、やや長い畝状竪堀です。8mほどになるでしょうか、深く、鋭く刻まれているのが分かります。堀切部分に直結している竪堀などを含めると計13条になります。
今まで知られている越前の畝状竪堀のある山城は、数え上げても十余カ所です。

神宮寺城、一乗谷城、成願寺城、戌山城、野津又城、村岡山城、三室山城、西光寺城、波多野城、文殊山城、織田城、厨城、金ヶ崎城。
これらは野津又城、西光寺城、三室山城をのぞくと、その多くが複数の曲輪で構成される詰城、または拠点的な山城とみられるものばかりです。今回の尉ヶ峰城は規模の点からすると三室山城などと同様、単郭で砦のような性格をもった小規模な山城と思われます。
その山城に計10カ所以上の畝状竪堀を施すものが、丹南の天王川流域で確認されたのです。

これは一体、どう理解したらよいのでしょうか?

編集_芝山城跡、尉ヶ峰城跡踏査2016年11月2日 008主郭部南側斜面下の畝状竪堀
県内では、もう新たに畝状竪堀をもつ山城は発見できないだろうと思われましたが、それほど福井県は越前、若狭両方を含めても確認例が少ない県です。しかし、今回の発見で事情は大きく変わりました。

越前町栃川の山城踏査2016年11月7日 (4)同畝状竪堀(奥側から)
丹南地域(=丹生山地南半部鯖江、越前市周辺)の山城の調査は、県内の他の地区に比べても実態不明の山城の多い地域です。丹南地域はその西半部のほとんどを丹生山地で占められています。高い山嶺こそ少ないですが、中世の古い時期から人々の開発が進み、山間地荘園が数多くみられる地域でもあります。この地域には室町時代から戦国時代にかけて、朝倉氏の領国支配の統制が浸透していたとはいえ、庄園ごとに、あるいは軍事的な要所には砦や詰めの城郭が数多く築かれたであろうことは想像に難くありません。

にも拘らず、多くの城館の実態が不明のまま、縄張の全容が把握されて来なかったのです。そして、そのなかに畝状竪堀をもつ山城がヒョッコリ見つかったのは、この丹南地域が実は古い時期から戦国時代の末まで、さまざまな形態をもつ山城がまだまだ人々に知られないまま数多く埋もれているのではないか、ということを予感させました。

ここから城歩きマンは、また土橋のところに戻って、東側につながる尾根線上を進んでみました。乙坂山山頂につながる尾根線です。その中間地点、標高170mほどのところになるでしょうか、なだらかな尾根道が続いていくのですが遺構らしきものは確認できなかったので引き返すことにしました。

さて、越前町栃川の尉ヶ峰城は『福井県の中近世城館跡』の掲載図によれば、南北約75m、東西約30mほどのやや長方形の平坦地に、矩折れの土塁や平虎口状の入口をもつ土塁、あるいは堀切を南端部に配した小規模の山城と紹介されています。しかし現状はこの縄張遺構図とは全くかけ離れたものだということが分かり、土塁こそ有しませんが、主郭とみられる楕円形の平坦地とその段下の帯曲輪に、多数の畝状竪堀を配した城砦だということが判明したのです。
『福井県の中・近世城館跡』に掲載した図は明らかに間違いで、どこかの図と取り違えて掲載されたものかとも思われます。それほど似ても似つかない図となっています。

不審に思って、『日本城郭全集』の尉ヶ峰城の項を読み返しましたら、「畑六郎左衛門居城と伝承するが不詳。城址は「68字蛇子鶴」の山林地籍、約二百メートルの高所にあり、現在、東に傾斜する斜面に約五十メートル四方の平地があって、南、東、北の三方に土塁跡、その南と東の二方に出口らしきものが残っている」とあります。

また、『日本歴史地名大辞典18 福井県の地名』の「栃川村」の項では栃川の西部山頂字蛇子鶴に尉ヶ峰城跡があると記し、反対の東側山腹字寺谷、善光寺谷に茶臼山城跡がある、としています。これらの記述から、『福井県の中・近世城館跡』の縄張の掲載図は正しい配置になっていないと思われます。

ちなみに「福井県遺跡地図」(福井県教育委員会)では旧朝日町の遺跡番号として、№18067に尉ヶ峰城跡、№18057に茶臼山城跡を記していて、『中近世城館跡』の記載に倣っていますがこちらも正しい表記ではありません。
最終的には谷の西側山腹に所在するという茶臼山城跡を現地で確認し、また、隣りの乙坂集落にある乙坂城(芝築地山城、または芝摺城)跡も確認する必要があると思われますが、今回の栃川の山城踏査はとても大きな収穫を得ることができました。

追記:この記事をアップした後、機会があって福井県の文化財情報ネット『福井県の文化財』を閲覧することがありました。
それによると、正しく茶臼山城と尉ヶ峰城跡の位置が訂正されていました。
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COMMENT 2

怜の父  2016, 11. 13 [Sun] 21:56

現地踏査、ご苦労様です。
やはり丹南地域は未調査の所が多いんですね。
案内板等、ほとんど皆無に近いですよね。

栃川に城があったのは知っていたのですが、てっきり南北朝時代の城かとばかり思ってました。が、なんか違うようですね。
そんな小規模な砦程度の城に執拗に畝状竪堀を施したのは誰で、そこを砦として重要視した理由は一体なんなんでしょうか。
なんかワクワクする疑問ですが、解き明かすのが大変そうですね。

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城歩きマン  2016, 11. 13 [Sun] 23:01

No title

怜の父さん、コメントありがとうございます。

標高約70m前後の小さな丘陵です。気軽に登れる山ですので、一度城の会の皆さんと登れると楽しいですね。

ご希望があれば、いつでもご案内します。

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