愛知県東三河の城館めぐり(第3日目②東条城、本光寺)

三河の城館めぐり2016年11月18~20日 (22)東条城跡三ノ丸から主郭部を望む
若越城の会の県外研修第3日目の2番目に訪れたところは、幡豆(はず)郡吉良町にある東条城跡です。

西尾城がかつて西条城と呼ばれていたのに対して、こちらを東条城として吉良氏が吉良庄一帯の統治を維持していたものと思われます。西条城は足利義氏が、承久の変後に三河守護として吉良庄に入り築城したことが分かりますが、東条城には確かな築城年代の記録がありません。

東三河研修旅行下見2016年5月22から23日 (1)東条城跡主郭部大手櫓門と見張台(主郭内部から)
西尾市ホームページの史跡の紹介によりますと、義氏は吉良庄の中央を流れていた古矢作川(現在の矢作川とはずっと東を流れていたそうです)を境に、西を吉良庄西条として現在の西尾城の位置に西条城を、また東側の吉良庄東条に東条城を構え、長男長氏を西条、三男(あるいは四男)義継を東条に置き、吉良荘を分けて治めたといいます。

それでも永禄年間には青野松平氏が入城していて、家臣の屋敷が周囲に設けられていたことが「城下絵図」等から推定されます。
実際に現地を歩いてみると、小高い丘上に主郭部があり、一遍聖絵を元に復元されたという大手櫓門や見張り台としての櫓が並んで建っています。

東三河研修旅行下見2016年5月22から23日 (2)瑞雲山本光寺の山門
西側の一段低い平坦地は三ノ丸と称され、北隣りに八幡社が置かれています。切り通しの城道を挟んで東側の一段下にまた広平坦地があり、これは主郭のすぐ北側で絵図でいうところの御袋様屋敷に該当するかと思います。さらに絵図には、城代として永禄5年以降に入城した松井忠次と関連するものかと思われる松井屋敷、石川屋敷、岡田屋敷などの名が載せられています。

山城にしても平地の居館跡にしても、現在残されている遺構をもとに建物や防御施設を復元する場合、いくつか時期が重なって遺存しているときは、どの時期のものを復元して代表させるかという大きな問題があります。
東条城跡では、一遍聖絵をもとに鎌倉時代の居館の構えに倣って推定復元をやったようです。とても古身を帯びた居館のイメージがあって、これはこれなりに一つの見せ場かな、とも思います。

三河の城館めぐり2016年11月18~20日 (23)本光寺西御廟所
東条城跡の次には、隣り町にある幸田町の本光寺を訪ねました。
このお寺さんは本山が福井の永平寺という曹洞宗のお寺さんで、大永3年(1523)に松平家の一つ、深溝松平忠定が松平家の墓所、菩提寺として建立したのが始まりと言います。境内の中央にある本堂をはじめ、西には初代から5代目での当主を祀る西御廟所、東には島原城に移封された6代から19代忠諒までを祀る東御廟所があって、それぞれの季節には梅、ツバキ、アジサイが咲き乱れる花の名所にもなっています。

三河の城館めぐり2016年11月18~20日 (24)本光寺東御廟所
熱心なご住職の案内で、予定時間を多少オーバーしましたが境内をひととおり回ることができました。
宝物殿には7代忠雄公の墓所から出土した遺品を中心とした品々が展示されていました。これは平成20年の夏に三河地方の豪雨によって、本光寺でも被害が発生し7代目当主忠雄公の墓石が傾き、倒壊の危険が生じたために緊急調査を実施。
この保存修復のために墓石を解体、地下の発掘調査が行われました。墓石はきちんと修復され、墓所から出土した数多くの副葬品は境内の宝物殿に展示、一般に供覧されることとなりました。

さすがに大名の墓石とあって、遺骸とともに葬られた柩のなかには化粧道具、文房具、飾り太刀・刀装具類、南蛮渡りのガラス製品、小判類など多数の多岐にわたる遺品があります。帰る時間が迫り、駐車場まで住職さんの見送りを受けましたが、道すがら話したことでは、住職さんは若い頃、修行で本山の永平寺にいたことがあって、それがちょうど平成16年の福井大水害の年だったそうです。とても人懐こくて話の上手な住職と、不思議なご縁の別れを惜しみつつ、本光寺をあとにしました。

次の見学地は、いよいよ研修最後の長篠城と設楽ヶ原古戦場跡です。
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