敦賀市金ヶ崎・手筒山城跡の踏査

金ヶ崎、手筒山城の踏査(ブログ用)2016年12月3日 (1)敦賀港緑地公園から金ヶ崎城跡を望む
金ヶ崎、手筒山城の踏査(ブログ用)2016年12月3日 (2)同緑地公園から手筒山城跡を望む
12月3日(土)終日敦賀市の金ヶ崎・手筒山城跡の踏査を実施しました。

今回の踏査は土塁囲みの山城、という趣向で歩いたものではなく、最近噂に聞いている金ヶ崎城跡の畝状竪堀について、現地で確認するための踏査行でした。

金ヶ崎、手筒山城の踏査(ブログ用)2016年12月3日 (3)金前寺前駐車場から細い階段をのぼって金ヶ崎宮へ
ずいぶん前、城歩きマンが定年退職した前後のことですが敦賀市の関係者に聞いたところでは、金ヶ崎城の畝状竪堀についてはよく分からない、ということでした。手筒山の最南端の舞崎町で土取り工事のために削平されるヶ所があって、緊急調査が行われたのですが、その際に丘陵の北東斜面でいくつかの畝状竪堀が確認された、という報告がありました。

金ヶ崎、手筒山城の踏査(ブログ用)2016年12月3日 (4)金ヶ崎宮境内の説明板(この右奥から二の木戸への急登に通じています)
編集_015説明板の黄色のマークが畝状竪堀のある場所
もっとも、舞崎町のそれは古墳群の調査、ということで敦賀市からの報告書も出ているのですがこのこととは別に、畝状竪堀に関する論稿が提出されていたのです。
城歩きマンはこのことがずっと気にかかっていて、敦賀市の職員さんにいろいろ尋ねましたが、現地踏査が不十分でよく分からない、都市公園で遊歩道が一杯できた結果、現地形の様子が把握しにくいということでした。

金ヶ崎、手筒山城の踏査(ブログ用)2016年12月3日 (5)二の木戸跡(実際には堀切)
それから5,6年も経って最近、山城研究者の機関誌で金ヶ崎城に畝状竪堀があるという図面が掲載され、本城跡ではっきりと畝状竪堀が確認されたかたちとなりました。
本城跡は南北朝期の新田義貞と斯波高経の戦いのことがよく引き合いに出され、その後の朝倉氏が敦賀郡司をおいていた戦国時代のことはトンと詳細が分からないままでしたが、畝状竪堀が確認されたことにより、ほぼ戦国時代の遺構の様子もいろいろ推定できるようになったのです。

昨日、福井市の牛若城跡に登ったばかりで疲れも残っていたのですが、天気は快晴で暖かく、申し分のない条件です。
早速、朝8時30分に自宅を出て、一路敦賀へ向かいました。

金ヶ崎、手筒山城の踏査(ブログ用)2016年12月3日 (6)二の木戸跡(遊歩道から見た堀切)
金ヶ崎、手筒山城の踏査(ブログ用)2016年12月3日 (15)二の木戸跡の説明板(二重堀切のようですが手前の堀切は金ヶ崎宮へ降りる小径のために切り落としたようにも見えます…)

金ヶ崎城は手筒山城を含めて東西延長約2.5㎞もあって、県内では、ほぼ一番規模の大きな山城だろうと思われます。
金ヶ崎城と手筒山城、おそらく金ヶ崎城が先に築城されたのでしょうが、どのように拡大されたのか、遺構の詳細はどうなのか、山城を研究するものにとって、県内外を問わず、だれもが気になる山城の一つだったことは間違いありません。<この項続く>
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