若越城の会2月学習会の報告について

2月学習会風景2017年2月19日 (3)
平成28年度若越城の会第2回学習会が、美浜町歴史文化館(美浜町河原市8‐8)で予定通り実施されました。
美浜町歴史文化館は美浜中央小学校のすぐ南側に隣接する建物で、開館して間もない文化財の展示施設です。

城の会の学習会はこの施設の第2研修室をお借りして実施しました。参加者は18名でした。
講演のタイトルは「戦国大名朝倉氏と一乗谷城」で、文字通り、一乗谷城を正面からとらえて紹介しようというものでした。
講師は城の会幹事のM、このブログの主宰者城歩きマンでした。

じつは一乗谷城に関する講演は、今から30年近く前の若越城の会が発足して間もない、昭和63年(1988)の10月に一度城下町遺跡と山城の見学会を兼ねて実施しているのですが、それ以降はほとんど実施されていませんでした。
当たり前すぎて、会員もいつでも見学できるということで予定には入れられていなかったことが原因でしょう。
ちなみに今回の学習会で参加者に、一乗谷城を登ったことがない人は?と訊きましたら、なんと約半数の人が登っていない、と答えたので、じつにショックでした。いまではもう半分の人が登った経験がない…。

学習会は予定時間の3時を大幅に超えて、3時30分までかかってしまったのですが、皆さん最後まで話をきいていただき、終わった後も質問が出るなど、一乗谷城については多くの人が今も関心を寄せていることがよく分かりました。
これに懲りずに今後も一乗谷城について、多くの人に関心を持ってもらえるよう、講演やら、見学会などを続けていきたいと実感した一日でした。
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COMMENT 2

闘将!刑部  2017, 02. 22 [Wed] 00:54

ひしひしと望まれる山城の発掘調査による解明

 そうですよね。先生が”一乗谷城に登ったことは?”との質問にあれだけの挙手される方が居られたとは…。”城の集う会”としては、致命的です。
遠征とかをされていますが、いま一度故郷のふくいの城というものを見つめ直してもいいのかもしれませんね。

 さて、後半の山城の構造や他城との機能性の違いといった城主体によるお話をもっとしていただきたかったかもしれません。(上のアンケートで話の趣を変えざる終えなかったかもしれませんが…)

 はじめに冒頭、城があるのは一乗城山にあり、一乗谷とは違うよというお話があったにも関わらず、一乗谷城と呼称しているのは、違和感を覚えます。
文献にも一乗谷城とは出てこないと聞いておりますし、やはり一乗(山)城と”谷”の抜かしての呼称が適しているのでは?と日ごろ感じているところです。

 次に、現在、三の丸と呼ばれているところが主体(主郭)と捉えられていることは、私も同調したいと思います。基本的に山頂に主郭を置くこと、また両端堀切でしっかりと守られており、斜面は畝状竪堀で回されていることからも堅固さは、とても感じられますね。

 その畝状竪堀が構築された編年を朝倉氏後の前波氏に推定されましたが、これには疑問を感じます。
やはり、朝倉氏が築いた防御方法だったものだろうと感じます。
ざっくりとでありますが、これは国内の他の城には畝状竪堀が構築されており、またお話にもありました、近江には畝状竪堀が少ない地域ということでありますが、朝倉が出兵した城にはその堀が見られています。
仮に前波氏だったとして、一揆(朝倉旧家臣)勢が盛んで国を治める混乱中、網羅するほどの竪堀を巡らす動力や時間はあったのでしょうか?
(堀を増やすということは考えられるのかもしれませんが。)
 構造的には詰めの城といった造りの稚拙な構造だと思っておりますが、本丸と呼ばれている曲輪ふもとの横堀こそ、朝倉氏以後に改築された遺構と考えていいのではないかと考えています。

 何れにしましても、諸問題により調査対象から遠ざかっている現在としては、谷の発掘については中世戦国時代の画期的な成果を先駆的にあげているにも関わらず、他方では城の発掘調査も徐々に目を向けられてきており、次々と発掘調査が進められている中で、城の調査が多々進んでいないという歯痒い状況はまこと残念に思います。
 是非とも城の方にも力を注いでいただきたいと思う気持ちが大きくなりました。

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城歩きマン  2017, 02. 22 [Wed] 08:01

闘将!刑部さん、コメントありがとうございます。
貴重なご意見、とても励みになります。
福井県の山城でいろいろと議論ができる、こんなことはついぞ今までなかったことです。

今後とも、こうした機会を増やして皆さんと福井の山城について話していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

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