越前町小倉城跡、上糸生城跡の踏査(2)

2017年3月4日、越前町の小倉城跡と上糸生城跡を踏査しました。

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (3)山頂部手前の林道わきにある堀切(?)
小倉城跡の現地には寺院の境内があるだけで、城館跡らしき遺構の痕跡は確認できませんでした。
そこで、上糸生の大玉(いかだま)地区にある城跡の踏査に向かうことにしました。この城跡は大玉地区の奥の谷筋からアプローチしました。新しく林道が開発されていて、それに沿って登れたので比較的簡単に山頂部に着けました。

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (4)林道と、脇にある土塁状の盛り上がり(一見して土塁と勘違いする?)
実際に山頂部まで行ったところ、その手前で林道の脇を見やると、なにやら左側に空堀らしき落ち込みが見えます。反対の右側を見るとここにも大きな穴があって落ち込みのように見えます。
どうやら左右の落ち込みから判断して、堀切があったのを、林道開発で尾根道を削り取ってしまい、堀切もそのまま埋まった跡のように判断されます。

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (5)山頂部南側斜面の空堀(2段目、東側斜面に向かって鍵の手に曲がる)
2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (6)同空堀(東側斜面にむかう鍵折れの状況)
同じような例は越前町厨と熊谷の境にある厨城跡でも確認しています。越前西部林道2号線が付近を南北に通っているのですが、その林道から派生して延びた見学道路が主郭に向かって延びていき、神社の祠の真下で止まっています。
この林道によって、主郭に南側に切られていた堀切が埋まってしまっています。
まことに残念な結果です。

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (7)同空堀(西側斜面に向かう鍵折れ)
そんなことを思いながらさらに奥の山頂部に向かって進みました。
山頂部は林道による尾根線の削平が進んでいて、山頂部で真ッ平に削り取られています。ほぼ10m四方はあると思います。平らにならして何をするつもりだったのでしょうか、現在は灌木が生えてきています。キャンプ場でも作るつもりだったのでしょうか?

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (8)空堀(2段目)から主郭部を見上げる
その先をさらに歩いて遺構の有無を確認しようとしたところ、南側斜面に横一線に落ち込みが延びているのが見えます。
近づいてみると、何と空堀です。全長30mほどはあるでしょうか、横長に斜面を切って延びています。山頂に向かって左側で、直角に折れ曲がる矩折れ(鍵クランク)をもって西側に延びているのです。右側はそのまま東に向かって延び、一旦90度折れ曲がって、北に向かって延びています。ここでも約20m確認できました。

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (9)同位置から下位にある3段目の空堀を確認
念のためにと山頂部に戻って、南側斜面を精査しましたら、山頂部の平坦面のすぐ下位でやはり空堀と思しき落ち込みを確認できました。しかし、ここは頂上分を削り取った際の土砂を埋めたものでしょうか、両側のみしか空堀らしきものは見当りません。

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (10)2段目空堀の東側斜面延長部(腰曲輪になっている)
そして、この空堀の先はどうなっているのか、と思って斜面下を下っていくと10~15mほど下位になるのでしょうか、やはりここにも空堀が横一線に延びているのが分かりました。
ここでは右側で弓なりに下にカーブを描いて落ち込んでいきます。
左側はまっすぐ伸びて西側斜面を這っていくようです。

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (11)2段目空堀(西側に向かう鍵折れの状況、西側から)
この上糸生城は、山頂部の北側で一度堀切のカットを入れて、南側のやや急な斜面を三度にわたって横方向に斜面を寸断するように遮断線を入れています。明らかに南側の下糸生、烏ヶ岳方面をにらんだ防御となっています。

2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (12)3段目の空堀(東側斜面を望む)
2017年3月4日越前町上糸生城跡の踏査 (13)林道入り口にある小白山神社の御堂
この上糸生城跡は、背後の尾根線上に曲輪群が続くかと言えば、そうはならず、どうやら短郭で構成された砦のような性格をもった城と考えられます。三重の空堀による防禦で、その手法は矩折れの所作が見られることからも、時期がかなり下るものと判断され、南北朝期の新田関連の山城とは決め難い内容をもっています。

こちらも断言は避けますが、織田信長の再度の越前侵攻に伴う、一向衆側の村単位の防御体制によって築かれた砦跡とでも形容しましょうか、そんな傾向を窺うことができる城跡としておきたいと思います。
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